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 困った。他に言いようがない。困った。まじで。さっきのわたし、ブレストとしては及第点だけど、それをどうするかができてない。あ、だからブレストなんだっけ。ああでも、なんであんなこと言ったんだ、どうしよう。

 頭の中でぐるぐると言葉が回る。レッスン室をあとにして、曲の方向性が決まったことにほっとする反面、衣装については曲以上に頭が痛い。

 着物なんて言ってみたのは、それこそ思いつきだった。その場しのぎ、ということではなく、本当にぽんと出てきたアイデアだ。だから自分でもいいとは思っているし、先生がああいう反応をするならもうやるしかない。しかないけど、――わたし、ぜんぜん着物の知識とかないんですけど。どうすんだこれ。

 思わず自分に自分でつっこんでしまう。みそらは思い切り息を吐いた。バックパックに詰め込んだ楽譜がやたらと重い。

 やらないといけないのは決まっているので、あとは考えるしかない。誰か着物に詳しい人なんかいたっけ――と脳内アーカイブをひっくり返す。うちの学校、邦楽コースとかないもんなあ。とりあえず友だち何人かに聞いてみようか。

 そこまで思って、もう一度息を吐く。さっきからこればっかりだな、と思いながらスマホを取り出し、チャットアプリから三谷みたに夕季ゆうきの名前を見つける。曲が決まったよ、と指を動かしかけ――みそらはふと考え込んだ。曲は決まったけれど、服装という課題がある。それで三谷に言っていいものか。いや、三谷は構わないだろう。早く練習に入れるならそれに越したことはない。だったら、この時間なのだから――

『決まったよ。日本歌曲側になった』『曲は「この道」「浜辺の歌」「花の街」で、順番は自分で考えてみなさいって』

 続けてすばやく打ち込む。

『それで、葉子ようこちゃんに相談したいことがあるから、もしレッスンが終わってこれに気づいたら連絡ください』

 木村先生のレッスン室と、葉子のレッスン室は階が違う。移動しておいたほうがいいかな、と思っていると、『終わったよ』という通知が来たのが見えた。

『まだレッスン室にいるよ。来る?』

『いく!』

 間をおかずにレスをすると、画面に既読という小さい文字が増えた。

『すぐ着くからって葉子ちゃんにも伝えといてください』

 そのまま返信を待たずにすぐに階段へ向かう。まだ講義の半分近くが残っている時間帯なので、移動する生徒はいなかった。

 自分の副科ピアノのレッスン室でもあるドアの前まですぐだった。レッスンが終わっているなら大丈夫だ、と踏んでみそらはまず一つ目のドアを開けた。一歩分しかない隙間のあと、二枚目のドアを開ける。

「あ、きた」

 すぐに気づいて三谷みたにが入り口を見やる。まだピアノの近くにいて、片付けじゃなかったのかとみそらが思っていると、その隣のピアノから葉子も顔を出した。

「おつかれ。木村先生のところに行ってたんだって?」

「うん」

 防音ドアの硬いノブをぎゅっと閉め、みそらは中に入った。同じ建物の同じレッスン室なのに、木村先生の部屋と葉子の部屋はまた別の雰囲気をまとっていた。みそらはまっすぐに立ち、一度深呼吸をし、「羽田はねだ先生」と呼びかけた。声帯が自分の思うように震えるように、腹筋と背筋を締め上げて続きの言葉を体の中から引き出す。

「木村先生から許可がでたので、先日の話、正式にお受けします」

 自分の声が、レッスン室にあるグランドピアノの弦と共鳴するのがわかる。それは祝福か、それとも激励か――その奥にいる葉子は、しっかりとみそらの言葉を受け取ったようだった。ふわりと微笑んで、「ありがとう、うれしいです。よろしくお願いします」と言った。

「木村先生にもお礼をお伝えしてね」

 葉子の言葉にうなずくと、すこし肩の力が抜けるのがわかった。葉子の隣にいるみそらの伴奏者は、今日もやっぱりどこかうれしそうに見えた。それに思わず口元がゆるむ。この二人の前で取りつくろっても仕方ないと思って、一度口元を両手で覆って息を吐いた。指輪の硬さと冷たさがまた冷静さを呼び戻す。

「ええと、まず報告だけど、曲が決まりました。日本歌曲でまとめて、『浜辺の歌』、『この道』、『花の街』の三曲です」

「いいじゃない。みなさん喜びそうなラインナップで」

 葉子の雰囲気がさらにぱっと明るくなる。部屋の雰囲気は違っても、葉子ちゃんも木村先生も、どっちも陽の人だな、とみそらは思った。自分もつられてほっとするのがわかる。

「そう? よかった」

「ちょうどいいから、みっちゃんには今週、わたしが前に使ってた楽譜、貸しとくわね。来週までにメモしたいところがあったらしといて」

「はい」

「あ、それで、葉子ちゃん――」

 楽譜棚のほうを向きかけた葉子をみそらは呼び止めた。――問題はここからだ。思わず右手で左手を包み込むように握ると、左手にある指輪にふれる。

「衣装なんだけど、――和服にすることにしたの。でもわたし、自分で着付けとかしたことなくて、もし葉子ちゃんの知り合いとかにそういうのがわかる人がいれば教えてもらいたいと思って」

「和服か、いいわね。雰囲気出るし、皆さん喜ばれそう」

 葉子はうれしそうに微笑んだ。曲も演出も、なんとか及第点に届いたのでは、と思って内心ほっとする。問題はその着付けだった。

「知り合いに詳しい人はいるよ。でもすんごく仲がいいわけじゃないし、返信もすぐとは言えないかも」

「うん、大丈夫。いざとなったら自分で単発の着付け教室とか探してみようとは思ってるし」

 葉子の知り合いにお願いできたとしても入用にはなってしまうだろう。でも背に腹はかえられない。やるからにはやる、そうやってこの学校で生きてきた。

「あのさ」

 三谷の声がして、葉子が「あ」と声を上げた。

「あ、ごめん、楽譜ね」

「そうじゃなくて、山岡の衣装の件だけど」

「え、他になんかいい案ある?」

 思わぬところからの発言に、みそらは若干前のめりになってしまう。和装以外にいい案があるなら聞いておきたい。三谷は「いい案というか……」とめずらしくすこし歯切れが悪そうな言い方をした。

「着付けとか衣装なら、紹介できると思う。着付け教室くらいのレベルだと思うし」

「えっ、――ほんとに?」

 思わず声が大きくなる。葉子も隣に立つ弟子をのぞきこむようにした。

「わたしより早くつながりそう?」

「うん。――場合によっては即、返事が来ると思う」

 即、という言い方からして、相当近い関係だろうと察せられる。けれどやっぱりあまりはっきりとしない三谷の口調に、思わずみそらは首をかしげた。

「――誰?」

「ばあちゃん。うちの」

 一秒、間があいた。それからみそらはあんぐりと口をあけて、大きく息を吸った。

「――まじで?」

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