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 その日の夜のうちに木村先生に連絡をすると、木曜の三限の時間はどうかと連絡が返ってきた。相変わらずこういうことの返事は素早いな、とそのやり取りを思い返しながら廊下を進み、ずらりと並んだ防音室のひとつの前にたどり着く。ひとつ息を吐くと、いつもよりほんのすこしだけ緊張しているのを自覚した。やることが違うからだ、と思う。

 重い防音扉を開ける。そうするとすぐに二枚目の扉があって、みそらはそれもそのまま開けた。防音扉なのでノックをしても聞こえないからだ。

「ああ、みそら」

 ドアを開けると、奥から声が聞こえた。低くてふくよかで、響きのある、高校生のときに恋に落ちたファントムの――木村先生の声。

「ひとりかい?」

三谷みたになら今の時間はレッスン中ですよ」

 そうだったっけ、と笑いながら、木村先生はいつもの椅子座ったまま、日本人にしては長い脚を組み替えた。――レッスンモードだ、と背中に電流が走る。

「じゃあさっそく、案を聞こうか。すべて通しで十五分以内だったよね」

「はい」

 みそらはうなずいて、バックパックから楽譜と、数枚のルーズリーフを取り出した。いつもの譜面台にそれを置いて、一度、呼吸を整えた。

「まずは、イタリア歌曲でまとめた案です。名前は知らなくとも耳なじみのある曲もいくつかあるはずですし、オペラアリアは『発表会の演目』としては映えるかなと考えたので」

 用意したのは『Vaga luna』――優雅な月よ、『O mio babbino caro』――私の大好きなお父さん、『Un bel dì,vedremo』――オペラ「蝶々夫人」から『ある晴れた日に』、『私が街を歩けば』――俗にいう「ムゼッタのワルツ」、そしてコンクールでみそら自身の持ち曲になった「トスカ」の『Vissi d'arte, vissi d'amore』――歌に生き、愛に生きだ。

 木村先生はおだやかに、ひとつうなずいた。それが先をうながす合図でもあると知っているみそらは、「つぎに」と続けた。

「日本歌曲でまとめた案です。生徒さんには四十から六十の女性が多いと羽田先生から聞いたので、教科書に載っている曲を中心に集めてみました」

 ふたつめの案として用意したラインナップは、童謡を含む日本歌曲、『浜辺の歌』、『花の街』、『からたちの花』、『荒城の月』、『この道』、『ちいさい秋みつけた』だった。いずれも自主練はしたことがあっても、先生にレッスンで見てもらったことはない。――イタリア歌曲より緊張する。けれど、みそらはこちらを本命にしたかった。だからこそ二案目として出した。

 木村先生は、ふむ、と息をするようにうなずいた。

「二案目だけど、曲の優先順位はつけているのかな」

「はい――」

 きた、と思って背筋がまた軽く震える。みそらはちらりとルーズリーフを見た。一瞬だけ息が詰まる。けれど。

「曲の緩急と季節を考えたら、『ちいさい秋みつけた』、『浜辺の歌』、あとは、『この道』の三曲で組んでみてもいいかなと」

 先生はまたうなずいた。今度はすこし満足そうにも見えた。先生の背後にある窓から、秋の光がにじむように注ぐ。

「みそらが大事にしたいことは何だい?」

「大事にしたいこと、ですか」

「そう、今回のお客さんに伝えたいこと。こう感じてもらいたいっていうようなことは何だろう」

 みそらはまたたいた。自分の長いまつげがひらひらと上下する。無意識にくちびるに右の指をあてて、考えながらも言葉が詰まることなく出てくる。

「聞いてよかった、って思ってもらうことですかね。でもそれは『難しい演奏を聞いてよかった』っていうのではなくて、もっと――楽器は違うにしても、自分ごとにしてもらいたいです。ご自身で選んで、レッスンを受けている方がほとんどだと聞いたので」

 伝わりにくかっただろうか、とみそらがどきどきしていると、先生はやっぱりふむとうなずいた。

「じゃあ、これはどうかな。『この道』、『花の街』、『浜辺の歌』。『浜辺の歌』には西洋らしいリズムもあるからそのあたりも受けるだろうし。曲順はみそらが考えてごらん」

 みそらはぽかんとした。その気の抜けた表情を見て、先生はおもしろそうに笑ったようだった。

「どうしたんだ、今の顔は」

「え、あの――」

 みそらは一瞬言いよどんだ。そんなみそらに先生は視線だけで続きをうながす。

「北原白秋はくしゅう――『この道』でもいいんですか」

「もちろん。みそらが選んだんだろう?」

「それはそうですけど――」

「やれると思ったから持ってきたのではないのかな」

 優しい口調だったのに、一切の逃げを封じる声だった。これぞまさに――木村利光としみつ

 みそらはまた一度、長く深く、息を吐いた。それからしっかりと姿勢を正しくして、まっすぐに師匠を見る。

「やれます。勉強は、今年に入ってからも続けているので」

「それでこそ僕の大事なみそらだ」

 今度こそ満足そうに先生はうなずいた。太陽だなあ、とみそらは心の中でほれぼれする。ファントムとは言うものの、物語の中のファントムと違うのは、その明るさだ。オペラ座に棲む彼にはない底抜けの明るさが、普段の木村先生にはある。

 その笑顔に素直にほっとして、みそらは譜面台においている楽譜やメモをにそっと手をのばした。三谷にも連絡しないといけない。

「で、衣装はどうするんだい?」

 言われて気づいた。さっきの三曲でまさかいつものドレスでは出れない。いや、出れないことはないけれど――場違いだ、やっぱり。

 みそらが思ったことをもちろん先生も思っていたようで、先生は首をかしげてみそらの返答を待っている。

 えええ、どうしよう、ドレスは合わないし、といって高校生までみたいに制服なんかはないし、合唱のモノトーンじゃもっとだめだし。あーこないだ葉子ちゃんが木村先生は衣装なんかにもこだわるって言ってたの、これなんだよなあ。演奏会とかに着ていくワンピース――は『花の街』ならギリいけそうな気がするけど、いやもっとだめだ、なんか違う。『浜辺の歌』、『この道』――

 数秒、か、十数秒のあいだ、みそらの思考はめまぐるしく動いた。日本歌曲、日本歌曲を視覚的にもうつくしく――

「――着物」

 ころんとくちびるからこぼれるように出てきた単語に、木村先生は頬杖を外してぱちんと指を鳴らした。

「いいね、和装か。年齢層的にも受けがよさそうだ」

「そ、そうですか」

「そう思わないかい? ――うん、いいね」

 先生の脳内ではすでに映像が――というか、演出だろうか、そういうものが見えているようだった。たしかにオペラ『蝶々夫人』だって、今ではかなり忠実に日本の衣装を再現しているし、フィギュアスケートなんかでも衣装に取り入れる選手もいる。受けというならたしかに、大幅に方向性が違うなんてことはなさそうだ。――けれど。

「じゃあ、とりあえず次のレッスンに持っておいで。伴奏はできるところまででいいと、三谷にも伝えておいてくれないか」

「――はい」

 ご機嫌になった木村先生を見るとそれ以外に返事のしようがなく、みそらはうなずいた。

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