3-2

(承前)


 レッスン室と同じように、この部屋のあるじもあの大きなグランドピアノだ。黒く、大きく、そしてうちに秘めた弦の強度を感じるのは、三谷みたにが弾いているからかもしれない、と思う。みそらの専攻が声楽だから、ということだけではなく、ピアノが男性に向けて作られた楽器であるということを打鍵ひとつひとつが明確に語りかけてくる。

 腹筋背筋を使うので食事後の練習がやりづらい、という声楽専攻の性質上、練習は基本的にみそらが先になる。そのぶん、三谷の練習時間にみそらが食器の片付けなどを行うようにしている。

 時間に余裕があればグランドピアノでみそらの副科ピアノの練習もしていいことになっているし――泡のついた手を見ながら思う。なんだこの至れり尽くせりは。わたしこんなにしあわせでいいのか? 思わず自問してしまうけれど、――やっぱり口には出せなかった。臆病にもほどがある、とは思うけれど、――とにかく今は先に、葉子ようこちゃんの依頼のことを考えないと、と思考を切り替える。

 まず考えなければならないのは、大人の生徒さんの、というところだろう。学校での発表会のように、やりたい曲やそのときの課題をメインに考えるわけにはいかない。そこで三谷が言ったのが、日本歌曲だった。小さい頃から歌っていた、という話から思いついたらしい。

「自主練はしてるって言ったじゃん。葉子先生の生徒さん、年齢層幅広いって言ってたし、誰が聞いても受ける曲ってあると思うけど」「たしかにそうなんだけど、まだ木村先生にみてもらったことないんだよね」「あとでちょっと歌って……って今日はもう無理か。明日は?」「え、めっちゃ前向き。なんで」「俺が聞きたいし、やりたいから」

 夕飯時の会話を思い出す。歌を聞きたいし、伴奏をやりたい、ということだろう。なんでうちの伴奏者はこんなにもアグレッシブなのか、と先ほどのやり取りを思い出しながら、最後の食器を拭き終わる。

 ただ――たしかに、案としてはありだと思った。大人になってピアノを始める人の多くは、習う時になってはじめて、自発的に楽器に触れるケースも多いと聞く。となると、歌であってもこちらの通常であるイタリア語などにはあまりなじみがない可能性も高い。

 コンクールなんかとはまったく考え方が違うな、とつい小さく息がもれた。対象が誰なのかをよくよく考えないと――引き受けたとしても葉子たちの期待には応えられない。

 葉子への返事をまだ保留にしているのはこのせいだ。木村先生の許可はおりた。けれど、何を歌えるのか、それを具体的にイメージできなければまだ返事はできない。布巾をいつもの場所にかけて、みそらはキッチンを軽く見渡してほほえむ。うん、大丈夫。いつもどおり。

 そっとドアを開ける。ちょうどピアノの音はしていなくて、三谷は鉛筆を持ち譜面台に左手を添えたまま、楽譜をじっと見ていた。空気の変化に気づいたのか、ふわりと雰囲気をやわらげてみそらのほうを振り向く。

「あ、――終わった?」

「うん。通っていい?」

 うなずく三谷の横を通って、荷物と上着を取る。

「じゃあまた明日――は、先に練習室だね」

「うん。片付けありがとう」

「いいえ。今日もごちそうさまでした」

 玄関で靴を履き、「ついたらチャットするね」と告げる。三谷はまた「うん」と言ってそれを見送る。閉まるドアに軽く手を振り、奥で鍵が閉まる音が聞こえてから歩きはじめる。マンション自体の入り口はオートロックなので、あとはみそらだけで構わない。

 ――最初はもちろん、家まで送る、と言われた。そう言うだろうなと思っていたのですぐにそれはいいと言った。こちらからみそらのマンションまでは五分ほどだし、練習時間の確保が目的なのだからそんな時間はもったいない、と言えば三谷も納得したようだった。ただし、着いたらかならずチャットで連絡することを条件に。

 これは女子同士だってそうだ。だからふつうだふつう、とみそらは自分に言う。そんなことを考えていると家まではあっという間に着いた。郊外にある学校、その周りといえば住宅地で、たまに家から声が漏れ聞こえたり、それこそ楽器の音が聞こえてきたりする程度だ。

 空はもうとっくに暗くて、歩いているうちに忘れていた寒さを、マンションの玄関を入ると思い出す。暖房が効いていることにありがたみを感じながらオートロックを解除して中に入る。エレベーターを使わずに階段で五階までのぼって、鍵を開けて自分の部屋に入る。

「ただいまー」

 ついくせで言う声に応えはない。先ほどまでいた部屋よりも狭いのは、置いている楽器の違いだ。ピアノ専攻はグランドピアノが基本だけれど、みそらたち声楽専攻はアップライトピアノか、人によっては電子ピアノだ。楽器の大きさが違うからか、――それとももっと違う理由からか、やっぱり狭いなと思う。でもこのコンパクトさがみそらは気に入っていた。必要最低限の家具と、楽譜や教材、そしてアップライトピアノがいる空間――

 靴を脱ぎながら、歩いている間も手から離さないようにしているスマホを立ち上げる。もう何も考えずに相手のチャットにたどりついて、『ただいま』といつものスタンプを送る。数秒すると『おかえり』といういつものスタンプが返ってくる。待ってるんだろうなあ、と思うと、申し訳ないような微妙な気持ちになる。

 暖房を入れて、うがい、手洗いを済ませ、風呂にお湯を張りながらみそらは楽譜棚の前にやってきた。ひとつ、長く息を吐く。

 これは仕事の依頼だ。葉子はそういう単語は使わなかった。けれど、これは仕事だ。その期待に応えられるだけのものを提示しなければならない。そしてそれはおそらく、曲の難易度なんかの問題ではない。――考えるべきは、観客のことだ。

 ――僕らはいつだって、日本人の心を歌っている。日本人はイタリア語のオペラ・アリアを歌えるが、イタリア人は日本歌曲を歌えない。そういうことだよ。

 いつかの木村先生の声はまだ体の中に残っている。蛇口から水が落ちる音を遠くに聞きながら、みそらは一冊ずつ丁寧に、楽譜を並べていった。

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