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 日は傾いて、校舎の中は夜に沈み始めている。みそらはかばんの中に入れっぱなしだったスマホを取り出した。返信を急がないでよさそうな通知はとりあえず置いといて、チャットを立ち上げて名前を探す。最後にやり取りをしたのはすこし前なので、木村利光としみつ、の名前を見つけるまで数秒かかる。画面を開いて、先ほどの話を端的にまとめて送信した。――まずは自分の担当講師である木村先生の許可がなければ、にっちもさっちもいかない。

 どう言われるだろうなあ、とみそらは思わず天井を仰いだ。みそらにはまだ早いよ、というような文面は想像がつく。それとも――

 みそらは一度目を閉じ、それからもう一度画面を見た。まだ既読にはなっていないけれど、――段取りは重要だ。

『いま葉子ようこちゃんに会ってきたんだけど』『大人の生徒さんの発表会の講師演奏の代打で、歌ってくれないかって話だった』

 送って、ミュートを解除したスマホを上着のポケットに入れて歩き出す。五限の時間の中にある校内は、冬が近づいているせいか妙に静かに感じられる。と、ポケットの中で軽やかな音がした。

『まじ? おもしろそう』『木村先生には連絡した?』

 みそらの伴奏者である三谷みたに夕季ゆうきからだった。返信がくるということは練習中でも、合わせの最中でもないということだ。それとも講義中だっけ、と考えながら返信をする。

『した。けどまだ返信きてない』

『そか。とりあえず俺はやれるよ』

「決めるのはっや」

 思わず声が出る。隣を通っていった生徒がちらりとみそらを見たので、つい肩をすくめる。廊下の端に寄って、みそらはスマホと向き合うことにした。

『返事、早すぎない?』

『葉子先生のところの発表会、いつあるか知ってるから』

 おもわず『たしかに』とキャラクターがうなずくスタンプを送る。

『だからスケジュール的には問題ないよ』

 ぽんぽんとテンポよく送られてきた返事に、みそらはまた指を動かしかけ――思い直して『いま話せる?』と送った。これは文面じゃなくて話したほうが早い。

『いいよ。図書館から出てくるからちょっとまって』

 返事はすぐきた。講義中でも練習中でもなかったらしい。

『りょーかい』『わたしも今から四号棟出るから、そのあたりで』

 もう一度ポケットにスマホをしまう。それからまた廊下を歩き出した。冷えてきた構内を歩くと、すぐにガラス張りの玄関が見えてくる。空のてっぺんにはもう星がいるような色合いだ。自分の靴音が床を蹴る音が規則正しく聞こえる。この学校で冬を迎えるのはもう三度目になる。このまま順調にいけば、ここでの四季はもう一巡しか出会えない。

 ガラスの扉は案の定冷えていて、木のドアノブで良かったと思う。外に出るとすぐに風が音を立てて髪をすくい上げていった。発表会やコンクールなどがあるからと切らずにいた髪はいつも長めで、今も背中のまんなかあたりに毛先がある。それを冷えた風がいたずらに撫でては乱していく。

「寒くない?」

 聞き慣れた声が聞こえ、みそらは反射的につぶっていた目を開いた。玄関の正面にある図書館はオレンジ色の緩やかな灯りをともしていて、その手前にいた三谷夕季の輪郭をうっすらと浮かび上がらせる。

「もう出てきたの?」

 みそらが思わず聞き返すと、うん、と小さく息で返事をして「ちょうどきりのいいところまでいってたから」と三谷は言った。言葉と一緒に白い息が散る。

「きりのいいところ?」

「インターン用のES」

「え、もう出した?」

「いや、とりあえず下書き。出すところは絞ったから」

「相変わらず仕事早すぎだよ……」

 みそらは以前の伴奏者である諸田から、三谷は高校の友人たちから情報をもらいながら、三年生向けのインターンシップの情報を集めていた。互いに冬のインターンに参加することを決めたのはたまたまだった。けれどそのたまたまも、お互いの状況を見ていたからこそだ、とみそらは思う。音大から一般企業を受ける、そのモデルケースの一人が、みそらにとって三谷夕季だった。

「ね、ちょっとそれあとで見せて?」

「いいけど……まじでまだたたき台だよ?」

「三谷のたたき台はほぼしあがってるレベルだってことを、わたしはもう知っています」

「何その言い回し」

 芝居がかったセリフに三谷が笑う。その顔を見て、みそらは思わず下唇を噛んだ。ああもう、なんかさあ、最近そういう顔するのやめてくんないかな、心臓に悪い。

 口には絶対に出せない愚痴がこぼれる。江藤えとう先輩がディプロマ・コースの試験を受け、無事に合格してから、やっぱり三谷もすこし肩の荷が降りたのかもしれない、とも思う。次に控えているのはもう卒業試験と、十中八九どころか出演間違いない卒業演奏会くらいに抑えてもらっているらしい。さびしいけれど、そうやって三谷と先輩はすこしずつ離れていく。そしてその分、みそらとの時間がすこし増えて、就活に向けた時間――自分たちの卒業へ向かってやることも増えていく。

「ストールかマフラー、持ってきてない?」

「あ、忘れてた」

 言われてバックパックの中に入れっぱなしだったのを思い出す。三谷が手をこちらに伸ばしてきた。みそらは「ありがとう」と言って背中から降ろしたそれを渡し、冷えたジッパーを開けた。

「――ほんとうに大丈夫なの?」

「なにが?」

「さっきの話。木村先生がOKを出したら、それこそほんとうに話が進むよ?」

「ってことは、山岡はやる気なんだ?」

 みそらはきょとんとして相手を見上げた。手に持っているストールは空気を含んでやわらかく手にふれる。三谷は笑いをこらえきれないようすで、「気づいてなかった?」と言った。

「――うっかりしました」

「うっかり本音が出ましたか」

 しっかりと言い直されてぐうの音もでない。畳んでおいたストールを首周りにくるくると巻くと、ふわりと空気の膜につつまれたような心地になった。

「……やりたいとは、正直思ったから」

「うん」

 なぜか自分がうれしそうに笑って、三谷はみそらの荷物を差し出した。「ありがとう」ともう一度言って受け取り、背負ったときだった。ポケットから着信音が聞こえた。

 ポケットからスマホを取り出す間、三谷は何も言わなかった。薄暗くなってきた空気の中、二人の周りを足早に生徒たちが校門のほうへと歩いていく。

 気の抜けたような、苦笑のような笑いがもれる。そして三谷を見上げて、みそらは言った。

「ぜひやってみなさい、だって」

「うん。――木村先生ならそう言うと思った」

 やっぱり三谷はうれしそうに笑う。二人に見透かされていたような気がして、かすかに体温があがる。冷たい風がみそらの頬をなでるけれど、心の中は灯りがともったようにあたたかくて、みそらはそっとストールを口元まで引き上げた。

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