第六章 雨は林檎の香のごとく

1

 窓からは秋の空が見える。自分が座る位置とは平行で、学校が少し高い場所にあるせいか高くはない屋根が遠くに向かって広がっているのがわかる。その内側にあるこの部屋にいると、時計の針の音の一瞬のすき間が聞こえるような気がした。黒い大きなピアノが二つあって、そして楽譜がある本棚がある。そこに自分がいると、どこか時間のはざまにいるようで――そんな不思議な感覚がみそらは本当にすきだった。

「――大人の生徒さんの発表会?」

 みそらが繰り返して言うと、グランドピアノの横に立った葉子ようこは「そう」とうなずいた。

「子どもの発表会が春で、大人の生徒さんは秋なの。同時期にやったらたいへんなのよ」

 大きなピアノにもたれかかった葉子の表情の変化はわずかだったけれど、その言葉が嘘ではないことを伝えるにはじゅうぶんだった。

「じゃあ、裏方? アナウンスとか」

「それも考えたんだけど……」

 山岡やまおかみそらの副科ピアノの講師である羽田はねだ葉子は、みそらたちの十一個上で、今年で三十二歳になる――らしい。らしい、というのは、どうにもそれより五つほどは若く見えるからだ。葉子がグランドピアノに寄り掛かるようにすると、窓から入る夕焼けの色を吸い込んだ髪がゆるやかに輝いた。

「今回は歌、お願いできないかと思ってるの」

「歌?」

 みそらが面食らうと、葉子は軽く苦笑したようだった。

「うん、いつもピアノだと、生徒さんも飽きちゃうのよ」

 首をかしげて言った葉子は、夕暮れの光の中で妙に色っぽく見えた。葉子の腕の下にいるピアノはまるでまどろんでいる大きな獣のようで、無機質な箱がいくつも並んだような校舎の中にあってとりわけ魅力的だ。部屋の中に大きな翼ある生き物がいるように感じられる――葉子のレッスン室は、みそらにとってそんな場所だった。

「講師演奏は通常、メンバーの中から二人ずつ交代制でやるんだけど、最近マンネリなんじゃないか、って意見が出て。午前と午後の二部中、片方だけでもいいから何かべつのことをやってみれないか、――ってことで、わたしが提案したのが歌。もちろんメンバーには本人の意思を確認してからで、うちの生徒だからっていうことも伝えてる」

 みそらはうなずいた。そこをすっ飛ばされたらとんでもない。なにせ葉子の言う「メンバー」は、それぞれが講師や演奏活動などで生計を立てているプロだからだ。

「ていうか――そこにわたしを呼ぶなんて、葉子ちゃん、無謀な賭けにもほどがあると思わなかった?」

 つい呆れたような本音が出る。けれど葉子は「無謀?」と首をひねった。

「ぜんぜん。こないだの学内選抜だってすごく良かったし。それにカンだけど、みそらの歌って生徒さんたちに受けると思うのよね」

「え、――どういうところが?」

「なんていうのかな……教育番組の歌のおねえさんぽくもあるのに、役にもなりきれるあたりかな。『ミミ』とかだとアイドルっぽさもあるし、……とにかく、総じてかわいい。それが理由」

「……抽象的すぎない?」

 みそらがぴんと来ずに首をかしげると、葉子は「ごめんごめん」と苦笑した。それから葉子はすこし、姿勢を正して弟子を見つめた。

「でも、呼びたいと思ったのは本当よ。ただ、みそらにも自分の練習とか他にもやることがあことはわかってるから、もちろん断ってくれてもかまわない。でも――考えてみてくれたらうれしい」

 真摯な声が胸にとどく。みそらは二回、ゆっくりと呼吸をして、それから「わかった」と言った。

「いつまでに決めればいいかな?」

「来週の金曜日のお昼くらいまでに、チャットでもいいから連絡をくれると助かる」

 みそらはうなずいた。その日の夕方か夜あたりに、次のミーティングがあるということだろう。

 話がある、と葉子からチャットが送られてきたのは、昨晩のことだった。三谷みたに夕季ゆうきとの練習終わりで、三谷からは「相変わらず姉妹みたいだよね」と言われたけれど、葉子が内容を伏せたままに呼び出しをするのはめずらしかったし、こんな内容だとは思ってもみなかった。

 学外の舞台――しかも専攻以外のプロに混じって、その生徒の前で歌う、だなんて。

 みそらは無意識にレッスン室を見渡した。

 二枚の防音扉、窓から見える静かな景色、壁際に並んだ本棚とまるで図書室の一部のような楽譜たち、そして横に並んだ二台のグランドピアノ。

 どのピアノ講師でも、基本的なレッスン室の構成要素は同じようなものだろう。けれどみそらはたまたま割り振られた羽田葉子と、彼女が行うレッスンと、そのレッスン室がとても好きだった。グランドピアノという大きな翼ある生き物といっしょに音をつくる――その間接的な難しさと曲のおもしろさを教えてくれたのは間違いなく葉子だ。

 片付いてるけど、ちょっとだけ楽譜が入り組んでたり、レッスン中に喉をうるおすペットボトルがあったりで、庶民っぽいんだよなあ、なんてみそらは思う。それが葉子がつくる音楽の部屋のにおいになっていて、それに惹かれていることもみそらは自覚しているし、――恩返しをするとしたら、舞台とか、音楽で返したい、という思いは以前からあった。

 知らず鍵盤にそっとふれていると、「弾いていく?」という声が耳に届く。顔を上げると、葉子はゆったりとピアノに体を預けていた。

「ショパンのワルツを一回弾くくらいなら、片付けながらでもいいよ。もう暗譜してるでしょ」

 みそらは思わず頬をゆるめた。ただ足を運んで話を打診されるだけではない、「もてなし」のちからのようなものが、この部屋にはある気がしてならなかった。もしかしたらそれが、針と針との間にある時間をつくっているのかもしれない。

「片付けながらって言って、ふつうにフィードバックするのはなしだからね」

「どうだろうね、気になったらするよ」

 歩き出しながら葉子は言った。

「担当講師ですからね」

「……たしかに」

 みそらが言うと、ふふ、と小さく笑いが聞こえた。みそらはもう一度椅子に座り直す。高さは大丈夫だ、あとは姿勢と、距離と、そして、――息。

 葉子がゆっくりと片付けをしている。本棚に楽譜を戻して、出した書類をしまって、隣の講師用のピアノの蓋を閉めるのだろう。今日がゆっくりと終わりに向かう、そんな時間を、自分の音はどう彩れるだろうか。

 みそらは白黒が規則正しく並んだ鍵盤に両手をのせた。譜面台の隙間にダンパーと金色の弦、そしてハンマーが見え、外には秋の空と住宅と――そのさらに遠く、ポーランドの緑の芝、オレンジの煉瓦れんがが広がっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る