11-2

 渡そうと手を伸ばすと、なぜかみそらが小さく苦笑していた。どうしたのかと思った視線に気づいたのか、みそらは「ごめん」と言った。

「ちょっと前に葉子ようこちゃんに言われたこと思い出して」

「葉子先生?」

「うん。今やってるショパンワルツの十五番だけど、最初に曲をもらったときにどんなイメージかつかめないって相談したの。そしたら葉子ちゃんが――」

 みそらの手がてのひらにふれる。体温を感じた。歌の血潮だ、と思う。

「田舎娘のふりして、誰ひとり手を握らせない高潔な女性を演じてみて、って言ったの。そんなこと他の人も言われるのかなと思ってべつのピアノ科の友だちに聞いたら……あ、ほら中野門下の」

「あ、わかった」

「そうそう、そしたら、そんなの言われたことないって返されて」

「わかる。葉子先生だからだよ、そういうこと言うの」

「だよね、葉子ちゃんだからだよね……」

 うなずいて、みそらは「ありがとう」と指輪を受け取った。ふれた指先はトリルの鍵盤よりももっと軽やかに自分の肌をはじいていく。

「高潔なんてとんでもない、と思うんだけどな」

 なんだか含みのある言い方のような気がして思わずみそらを見ると、視線に気づいたみそらはまた苦笑の表情をにじませる。

「もっとわたしの中身はどろどろしてるんだ、って、今日はそれにも改めて気づいた」

 そう言って、それから指輪を丁寧につけると、「あのね」と小さく呼びかけた。伏し目がちになるとみそらのまつげの長さが際立つ。つややかな白い頬に、間接照明に染まった影がやわらかく落ちている。

「がんばるから、喧嘩、付き合ってね」

「――どうしたの、いまさら」

「いまさら」

 三谷みたにの言葉を繰り返して、みそらは軽く吹き出した。

「いまさらだよね。そうか、いまさらか」

「そうだよ。――なんかあった?」

「うん……」

 みそらは右手で左手を包みこむように軽く握った。右の指先が指輪を隠すと、誰ひとり手を握らせない高潔な――先ほどの言葉がよぎる。

「今日の感想としては、本当にひとつしかなくて。もう正直に言っちゃうけど、ほんとに嫉妬したの。先輩に。だって伴奏、すごくよかったんだもの。なんであの曲がわたしの曲じゃないのかと思って、すごく悔しくなった。楽器がそもそも違うっていうツッコミはなしね、自覚してるから」

 うつくしい旋律を見ているような言葉運びだった。こちらを向いた瞳は泣いたようにみずみずしく、長いまつげと目元の薄い化粧とがあいまって視線を離せない。

「だからぜんぜん高潔なんかじゃない。葉子ちゃんの宿題、ぜんぜんできてないんだ。だけど、――自分なりのソプラノになるから、隣にいてね」

 みそらの口調はとても真摯だったし、みそらが自分のことをソプラノだと言うのはめずらしかった。みそらがゆっくりとまたたくと、長いまつげがこまかく震えるのが見えた。みそらはさらにそっと言った。

「指、握ってみていい?」

「いいけど……どうしたの」

「先輩に言われたこと、実践してみようかと思って」

 みそらの指が、テーブルに乗ったままだった自分の右の指にふれる。四の指を軽く握られて、みそらのなめらかな指先が自分の指の腹をすべる。そのみずみずしい感触に、今なら言えるかも、と瞬間的に思った。先輩の声が脳内でけしかけて、口からするりと言葉が出てきそうになる。――けど。

 誰だって「やりたい」だけでいられるわけじゃない。自分たちはそのあわいの時間の中でもがいて、まだ、ほんの指先だけがふれるところにいる。

 誰かと一緒にいるために具体的に何をしたらいいのか、未来につなぐために何が必要なのか、相手に何が提示できるのか。それをなくして軽々しく言えるものだとは思えなかった。高校生の頃などとは年齢も環境も大きく違う。

 江藤えとう先輩だってそうだ。何の努力もなしに、そこにいたいという子どもじみた思いだけで何かを得たわけじゃない。これは言わないことの逃げじゃないと思った。むしろ――いままで逃げてきたツケだと痛烈に思った。

 理由がなくても隣にいれるように。泣いてる時に抱きしめられるように。ふれるのが指先だけではなくてもいいように。そのための根拠を自分の中に作らないといけない――それほど山岡みそらが大切だと、てらいもなく思えた。

 指輪の光をゆらしながら指にふれているみそらの顔色は、店に入ったときから変わっていないように見えた。そう思うと、一瞬のうちにいろいろ考えたこちらばかりが動揺しているような気がしてくる。――でもそれもまたやっぱり、ソプラノらしいとも思う。

「ミントシトラスって、もうちょっとミント強めなのかと思ってたけど、鼻に抜ける程度だったんだね」

「あ――俺も藤村先輩に教えてもらったとき同じこと思った」

「そうなんだ。やっぱり藤村先輩もおしゃれ人なんだな……」

 けれど、さっきの言葉は忘れないようにしようと思う。「もう正直に言っちゃうけど、ほんとに嫉妬したの。先輩に。」――なんだそれ、もう殿堂入りだよ。絶対に忘れない。

 閉店まであと一時間を切ったし、卒業まであと一年半を切った。でも今はその時間を離したくなくて、――みそらの手を離せないままでいる。

 ほんの少しのミントの香りが風に乗る。ドアが開いて誰かが来たのか、帰ったのか。

「あと、あの無伴奏ソロすごかったよね。女性でもあんな音が出るなんてかっこよすぎる。あれも肺活量にちょっと妬けたんだよね……」

「ああ、櫻井さんね」

 言うと、さっきのようすが思い出されて思わず笑ってしまう。

「あの人、けっこうな酒豪だったよ」

「ほんと? ああ、でもなんかわかる気はする……」

 うっかり、ほんとうにうっかりだけど、みそらも同じ気持ちなんじゃないかとうぬぼれてしまいそうになる。そんなときにふとふれるミントの香りが、まだ、と言う。

 流れてくる風が冬を予感させる。閉じる季節――終わりへと向かう季節。でも、春を迎えるための力を蓄える、稀有な時間が流れる季節。

 ふれる温度はあたたかい。――だからもう少し、このまま。



[ミント・シトラスティー 了]

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