11-1
そういえばあの服は去年の演奏会でも着てたやつだ、と電車に乗ってから思い出した。日曜の夜、冷えてきた空気を含んで、車内もすこしひんやりとしていた。それでも人は多くて、またこの中でどれくらいの人が音楽をやるのだろうと、そんなことをぼんやりと思う。
二駅前になったところで、『ソファ席が空いてたからそこ確保したよ』というメッセージが届く。集合場所を指定したわけではないのに、と思わず笑みがもれる。いつからこうだったっけ、と思い巡らすけれど、決定的な何かがあったわけではないと思う。
みそらに十分ほど遅れて最寄り駅に到着する。改札を抜けて西口側に出るとすぐ前にあるのが、いつものコーヒーショップだ。
間接照明を使った店内は、これから来る冬を思わせるあたたかさがあった。閉店まであと一時間ほどのはずだが、まだ座席はそこそこ埋まっており、さらにテラス席にも人がいて、冷えてきた夜風をあえて楽しんでいるような雰囲気も感じられる。
店内に入ると空気はあたたかかった。いらっしゃいませという声を聞きながら店内を見回すと、受け取りカウンターの奥の席にみそらが座っていて、すぐに気づいて顔を上げる。「おつかれ」と口が動き、左手がひらひらと動くと指輪がきらきらと照明を反射する。舞台上の楽器みたいだなと思いながら、
「もしかして同じのになったかも」
「あ、そっちもミントの?」
「うん。一杯だけなんだけどモヒート飲んだから、なんかミントの口になって」
横に荷物用のバスケットを置いて、そこにバックパックと着替えや楽譜などが入った荷物を下ろす。そしてやわらかなソファに腰を下ろすと、なんだかやっと力が抜けた気がした。
「おつかれおつかれ。
「なにそれ、なんでそこで腹たってきたわけ」
「今週のレッスンで聞いてみなよ」
「葉子先生も褒め方がへんだよな……」
くすくすと楽しそうなみそらに思わずぼやいてしまう。みそらは「だよね」と笑って、テーブルに手を伸ばした。白い、同じ形をしたカップに、同じ色をした液体が入ってそれが二つ並んでいる。その片方をゆっくりと取って、みそらは口をつけた。
「人数が多いとバリエーションがあって面白いね。学内で先輩が出てるやつとか、もうちょっとこまめに足運んどけばよかったと、正直後悔しています」
「……ファンとして?」
「それもあるけど、なんていうか……」
言いながらみそらはテーブルにカップを戻し、そっと膝に頬杖をついた。すこし目を伏せただけで長いまつげが白い肌にきれいな影を落とす。
「自分の楽器を愛してる人の演奏をもっと聞きたいって率直に思った」
ああ、わかると思った。たぶんみそらは残りの時間を考えたのかもしれないとも思う。
話し声がする。何人もの知らない人たちが自分たちの周りにいて、なのにここだけ遮断されたような感覚。誰もこちらを気にしないことが、なぜか妙な安心感をもたらす。三谷はティーバッグをカップから取り出し、紙カップに入れながら言った。
「……前から聞いてみたかったんだけど」
「うん?」
「最初に影響受けたのが『オペラ座の怪人』だったら、ミュージカル方面に行こうと思わなかったのかなって、ちょっと気になってた」
実際にミュージカルを専門的に学べるコースなどを設置している音大もある。みそらは舞台映えするヒロイン役らしい顔立ちと体型だし、運動神経もよさそうなのに。
「ああ、――きっかけはそうだけど、ミュージカルなんて早い人は小学生のころから劇団に所属してはじめてるし。それに比べてわたしが本腰を入れたのは中学の合唱部からだから、もう遅いと思って。それに……」
すらすらとみそらは答えてカップを取った。熱を体に取り込むように両手で包み込む。
「ひとりでも歌えるようになりたかったの」
「ひとり?」
三谷が聞き返すと、「うん」と小さく言ってみそらは一口、紅茶を飲んだ。
「うち、おばあちゃんが日本歌曲とか好きで、レコードもいくつか持ってたの。わたしが高二のときに死んだんだけどね。おじいちゃんはお母さんが小四のときに、何だっけな……脳梗塞だったかな、で、亡くなってて。そこからお母さんを女手ひとりで育てたらしくて」
店内のざわめきに載るのはレガートのうつくしい音の粒だった。
「おばあちゃんの趣味がね、好きなレコードをちょっとずつ買うことだったらしくて。遊びにいくと、童謡とか日本歌曲とか聞かせてくれるし、わたし、二歳になる前とかからもう歌えてたらしくて。レコードもこっそり、勝手に触ってたりしたんだよね」
みそらから彼女の祖母の話を聞くのははじめてだった。そして思い至る――今月のあたま、自身の祖母が入院したときに自分ごとのように心配していたことを。
「『赤とんぼ』とか『夏の思い出』とか、学校の教材にも載ってるんだってことは学生になってから気づいて、そこでなんとなく思ったことがあったんだ。ひとりでも歌えるんだなって」
みそらの左手の二の指と五の指――一般的に言うと人差し指と小指――には銀色の細い指輪があって、それがゆるく店内の光を弾いているさまは、『オペラ座の怪人』にあるろうそくのゆらぎを連想させた。
「合唱部に入ってからもたまに思ってたんだ。中学も高校も三年間ずつで、みんなと一緒にいられるのは限りがある。でも自分が好きで歌うのは構わないだろうって。小さい頃に聞いてた曲って、そういう自由さがある気がして、……おばあちゃんも口ずさんだりしてたしね。だから日本歌曲もやれる声楽がいいって思った」
「木村先生のコンサートに行ったのって、それを考えてた頃?」
「漠然と考えてただけだからばっちり一致してるわけじゃないけど……合唱部でチケットのアナウンスがあって、もちろん興味はわいたよ。みんなとも、こんな田舎にもバリトン歌手って来るんだねって盛り上がってたし」
木村先生との出会いについてはなんとなく知っていたけれど、ここまではっきり聞いたのははじめてだった。みそらはカップをテーブルに戻し、かすかに笑みを浮かべた。つつましやかに誰かを想う、物語の少女のような風情だった。
「そしたらえらくかっこいいおじさまが出てくるんだもの。行った合唱部の女子は、みんなまんまと揃って恋に落ちたよね。中でも『荒城の月』と『からたちの花』は絶品だった。あのときは本気で、現実にもファントムっているんだって思った」
膝の上で指を組んで歌うように話すみそらは、衣装や店内の雰囲気も相まってか、それこそクリスティーヌのように見えた。ファントムのことを音楽の天使と信じて疑うことなく、歌に愛され、純粋で、――胸の中にひそやかに、しかしたしかな炎を宿した少女。
「だから、声楽専攻にしようと決めれたのは木村先生のおかげだね。いつか部のみんなと歌えなくなっても、たったひとりでもいいから、昔聞いた歌を自分が満足するように歌いたい。そう思った」
そうだったのか、と声には出さずにいると、ひとり、という言葉がくるくると視界に回る。みそらはいつのまにか左手にある指輪をくるくると回していて、それが店内の光を弾いている。
「なかなか恥ずかしいというか、――夢見てただけの若いエピソードだよ」
「そんなことないと思うけど」
「そうかなあ。ほんとに大した理由じゃないんだよね。江藤先輩だって山本先生に習いたいってうちのを学校選んでて、でも目標はぜんぜん違うわけだし――あっ」
五の指――小指にある指輪をくるくると遊んでいたみそらが、小さく声を上げた。外れた銀色の指輪が軽い音を立ててテーブルの上を転がり、三谷の前で止まった。
「ごめん、何やってんだか」
苦笑しながら言うみそらに、大丈夫、という意味を込めて首を横に振る。そうして手にした指輪は、小指だからだろうけれど、やっぱり小さかった。――正確には細い、だ。葉子でもこんな細さはありえない。鍵盤を毎日毎日叩き続けるピアノ専攻の指ではこのサイズは入らない。自分とみそらの専攻の違い、そして先輩との違いをふと思う。
(11-2に続く)
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