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 チャットの画面を見る。文字を打ち込もうとして、ふと手を止めた。声が聞きたい。

「はい、もしもし」

 通話に出たみそらの声には先ほどのような水のにおいはなくて、いつもの鈴を振るような音だった。それにほっとして、三谷みたには続けた。

「今、話しても大丈夫?」

「うん。あ、もしかして先輩との合わせ終わったの? だったらわたしも練習室にいるよ」

「ああ、じゃあそっちに行っていい?」

 階段のほうへ歩き出しながら言うと、「うん、四二二」という声が続く。ひとつ上の階だ。いったん通話を切って、階段を上っていく。日が暮れ始めても練習棟からはまだまだ生徒がいなくなる気配はなかった。

 ドアの前に着くと、ガチャンという重い音がして防音扉のドアノブが動く。ゆっくりと奥から押し開けられたそのすき間から、みそらが顔を覗かせた。

「あ、やっぱり来た。ごめんね、アップライトの部屋だから狭いんだ」

 首を横に振って気にしないことを伝える。みそらはひとりで部屋を借りるときはアップライトピアノの部屋にしている。グランドピアノの部屋は数に限りがあるし、それはピアノ専攻が使うものだ、という意識らしい。

「どうしたの? わざわざ口頭でって」

 みそらがパイプ椅子から荷物を降ろし、三谷にすすめる。「ありがとう」と言いながらそこに座ると、壁はすぐ後ろだった。本当にアップライトピアノと人がひとり入るくらいの広さなので、ピアノ椅子に座るみそらとの距離も近い。長いまつげがひらひらと上下する、それもきれいに見える。

「さっき先輩から、今度の山本先生とかが出るコンサートに一緒に出てくれないかって言われた」

「いつ?」

「今月末の日曜。場所は去年、葉子ようこ先生の友だちが出るコンサートで行ったとこで――」

「あ、覚えてる! もしかして山本先生ってことは、周りプロ……?」

「か、セミプロ」

「えー! いいじゃん! やりなよ!」

 フレーズのひとつひとつにスフォルツァンドがついてる、と思って、思わず笑ってしまった。なんで山岡ってこう、日本語まで歌みたいなんだろう。

「――やっとわらった」

 え、と思ってみそらを見ると、眉尻を下げてふんわりと息をついていた。花がほころんだようすを連想させるような、柔らかさとみずみずしさのある表情だった。

「気づいてなかったか。昨日から三谷、あんまり笑ってなかったよ。――ほっとした」

 言葉どおりの表情を浮かべるみそらを見て、自覚してなかった、と思った。自覚してなかったし、自覚する余裕もなかったのかもしれない。

「チケット、まだあるの?」

「少し席が端になるけどそれでもよかったら、って先輩が」

「ぜんぜん問題ない! うれしい」

「うん」

 満面の笑みのみそらにうなずいて、そこでやっと肩の力が抜けたような気がした。みそらは少し身を乗り出した。

「――けっこう急だったね?」

「気が変わったんだって」

 みそらは首をかしげて続きをうながす。降りたブラインドの隙間から夕焼けの光が漏れていて、みそらの周りをやわく包みこむ。

「『ファンが居るんならそれに応えたいよね』って言ってたよ」

「うわあ……」

 みそらは数秒絶句した。頬がわずかに赤くなっているのを認めて、思わず三谷は声を上げて笑ってしまった。

「ごめん、先輩にファンの件言っちゃって」

「……先輩、なんて?」

「喜んでたよ、すごく」

「ほんと? よかったあ。まじできもい後輩って思われるかと」

「それはないよ、先輩に限って」

 みそらの反応は本当にファンっぽくて、それもわかると思う。自分がその片方に入れられているのは横においておくとして、江藤えとう颯太そうたを好きなのは――人柄も、その人柄がにじむ演奏も――、自分だって同じなのだ。

「うれしい。現場が増えるのはとてもうれしいのでぜひやってください!」

「公式に返信するみたいなのやめなよ」

「公式だもん」

 自分が、ということなのだろうなと思うけれど、先ほどみたいに否定する気にはならなかった。――そうだ、一年の頃から、自分はちゃんと江藤颯太の伴奏者だった。一年間は藤村先輩がいたけれど、それは自分に引き継ぐための時間でもあったから、――いつも自分はそうだったのだ。

「山岡」

 呼びかけるとみそらはまた首をかしげて言葉をうながした。そのようすは本当にオペラに出てくるヒロインのようで、それがまたあざとくもない、自然な動作であることに、みそらがここで「ソプラノ」として生きていることを感じる。そしてそれが先輩も言っていた「山岡さんはかわいい」にあたるのだとも。

「ありがとう」

「ううん」

 みそらは首を横に振って、それからうれしそうに微笑んだ。

「ファンの力って偉大でしょう?」

「たしかにね……」

 聞き手がいてこその音楽であり、オーディエンスがいるからこそのエンターテインメントであると。それは音大という学びの場であっても――いや、学びの場であるからこそ、その特異性が浮き彫りになるのかもしれなかった。

「ね、三谷ちょっと時間ある?」

「三十分くらいならいいよ」

 みそらはピアノのほうに上半身をねじり、楽譜にそっとふれた。

「ワルツなんだけど、どうしてもうまく跳躍できないところがあって。なんとなく腕の使い方なのかなと思うんだけど、わたしのやり方じゃうまく音色がハマらなくてアドバイスがほしいの。具体的にどっちの音に重心置いたらいいとかまでわかれば、よりいっそう助かるかなと思っております」

 最後のかしこまった言いぶりは、アドバイスをもらうという意識からだろう。喋りながらみそらはぱらぱらと譜面をめくり、小さくつぶやいた。

「三谷がいるんだったら、グランドの部屋にしたらよかったな」

 ワルツはショパンの曲だし、ショパンの曲ならグランドピアノじゃないとうまく感覚もつかめない。迷った時間は一秒にも満たなかった。

「……うちくる?」

「え、いいの?」

「今の時間、どこもフルで埋まってるだろうし、夕飯つきで」

「……食器の片付けで対価はオッケー?」

「手伝いもちょっとお願いしたい。先週頼んだくらいで」

「よし、行きましょう」

 明日が木曜、つまり三谷のレッスン日であることも、みそらはもう承知している。だからこそ片付け要員が必要なのだということも。

 俄然やる気になっててきぱきと片付け始めたみそらを見て、これがファンとその相手の距離感なわけがない、と面白くなってしまった。と、同時に、ふと思う。

 ――そんなこと、冗談でも、絶対に言えるわけがない。

 付き合う、なんてことを言ったら、きっとみそらからこの距離感は失われると思う。あくまで「専攻が別の」「ピアノは同じ門下の」「伴奏者とソリスト」だから成立するのに。でなければきっと、みそらは音楽を通じて喧嘩をする価値を自分に見出さないと思う。山岡みそらの中で音楽がどれほどの重みをもつのかは、これだけ一緒にいればもう、いやというほどわかる。

 だから、言えるわけないんですよ、と先輩に心の中で謝る。

 山岡みそらが自分のピアノで歌ってくれなくなったら、――それが何より怖い。

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