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「みっちゃん今日の演奏エロさだだもれだけどなんか悩んでる?」

 一度通したあとの、江藤颯太そうたの一言目がそれだった。しかも一息に。なんでこの人はこうなんだと毎回内心でびっくりするけれど、頻度が多いので顔にはもう出なくなってしまった。

「合わせにくかったですか?」

「いや、ぜんぜん。みっちゃん、フランスものがよく合うからそれが発揮されてるし、これはこれでありだなーと思って。そのくらい主張してもいいかも。今度のレッスンそれでいく?」

 主張か、と思う。伴奏の主張というのはとにかく塩梅が難しい。とくにこの曲はオーケストラ版があり、そのぶんピアノもソロが多いのでそこの主張は当然頭に入れているし、現代曲になるほど伴奏とソリストの掛け合いはさらに難しくなると感じている。

 この曲の作曲者であるアンリ・トマジは一九〇一年生まれ。まさにドビュッシーやラヴェルの息遣いを感じられる時代に生きた、フランスの作曲家だ。個人的な感覚だと、どこか南海の海の匂いがするような気もする。トマジは地中海のそばで育ったというらしいので、そういった部分が滲んでいるのだろうか。

「でも、今のは狙ってやったわけじゃないので、完全な再現は無理じゃないかなと」

「めずらしく弱気。まじ何悩んでんの?」

 意識していなかったけれど、さっきの回答をスルーしてしまったことに気づく。そういうのも逃さないのがこの先輩だ。

「――なんで山岡に、俺が伴奏になればいいって言ったんですか?」

 三谷みたにがピアノから先輩のほうに向き直って言うと、先輩はよく手入れされているとはた目からでもわかるトロンボーンを床に置きながら「ああ、それ?」と言った。

「シンプルに合うと思ったから。曲を攻略する気合いみたいなのが山岡さんも強いでしょ。学年の中でも飛び抜けてるんじゃないかと思う。かわいいし」

「……最後のそれ、いります?」

「え、今話題の女性なんとかに引っかかる?」

「それは大丈夫……かな、たぶん」

「まあちょっと意味が違うよね。俺が言ってるのは、……そうだな、舞台映えするというか」

「ああ……」

 思わず同意の声が出た。

「あの容姿であの性格で、舞台でも目を惹くし、去年のプッチーニもおもしろかったじゃん。あれを見たとき、あの子は伸びると思った。勝ちを取りに行ってたから」

 やっぱりそう思ってたのかと納得する。二年生の学内選抜予選でみそらが歌った『私の名前はミミ』。――舞台から抜け出てきたような、恋の駆け引きを楽しむ、若くかわいらしい少女。

「木村先生の教え方かもしれないけど、そういうところ、人気あるのわかると思う。だからみっちゃんと早く付き合っちゃえばいいのにと思って」

 三秒黙った。

「飛躍しましたね」

「そんなにしてないよ。実際、みっちゃんが伴奏しだしてから山岡さんのガードが硬いって言われてるのも聞いたことあるし」

 三谷は今度こそ黙った。へたに返事をするとやぶへびになる。

「ねーほんと何があったの。伴奏の件くらいでみっちゃんの演奏があんなにだだもれになるわけないんだしさ。あ、あれはあれでめっちゃ好きだよ、ほんと」

 先輩はパイプ椅子の背もたれを前に持ってきてそこに腕を乗せた。褒め言葉までするすると流れるような口調で長期戦の構えだ。三谷は今度は口を開いた。今先輩が聞いたのは「何があったのか」なのだし、こちらを黙秘する必要はない。

葉子ようこ先生から先輩がディプロマを受けるって聞いたらしくて、報告してなかったなと思ってさっき山岡に会ってきたんですけど」

 ちょっとだけためらった。

「……先輩と俺のファンだって言われました」

「え、まじ。うれしい」

 短い言葉だったけれど、先輩は本当に驚いていたし、おなじくらい嬉しそうだった。

「だから、来年になったら……」

 なんて言ってたっけなと思い返す。――あの線の細い体で。でもきっとその細さの下に、強靭な歌の血潮ちしおをめぐらせながら。

「たとえるならアイドルが引退する感じで寂しいし、それが受験申し込みで急に目の前に突きつけられた気がしてびっくりした、……ということらしく」

「なるほど」

 納得したようにつぶやいて、先輩は目線を軽く三谷からずらした。

「ありがたいよね、そうやって惜しんでもらうのは」

 惜しんでもらう――先輩の言葉に、胸の奥が震えたのを自覚する。

 まさか高三の夏に見て、受験のきっかけになる演奏者、その伴奏を担当していた藤村六花りっかというバケモノのあとを自分が引き継ぐことになって、それからはもうがむしゃらだったけれど、それがあったからここまで来れたのではないか。先輩との練習がなければ、――そもそもみそらの伴奏をやろうと思えただろうか。

 譜面を渡されるたびに現代曲特有の難しさにじつはちょっとだけうんざりして、でも音源を聞いたり自分で弾いてみるとそんなものも段々忘れていって。先輩と待ち合わせて練習室ではじめて「どんな音になるのか」を知った瞬間の喜び――その一方で、ぜんぜんうまくいかなくて本当は何度も自分じゃないほうがいいんじゃないか、誰かと代わったほうが、と言いかけたことがあったことも、でもそれをやったらすべての人を裏切るような気がして言えなくて、それと同じくらいそれに負けたくなくてここまでやってきたことも。

 舞台上から見るとよりいっそう金色が輝く先輩の楽器の美しさや、奏者の性格を反映したような音が客席に伸びるようすも、葉子に教えを請うたときのレッスンの楽しさも。

 みそらだけじゃない。――誰よりも惜しんでいるのは、自分じゃないのか。

「短いね」

 聞こえた声に、一瞬のうちにめぐった考えが視界から消える。先輩を見るとすこしだけ困ったように笑っていた。

「苦しいのは特待試験だけだったなと思って。特待だけはさ、まあ、ほんと、助けてもらったみっちゃんを目の前にして言うのもなんだけど、特待だけはきつかった。取らないとここにいられなかったから」

 ここにいられなかったから。――いまさら胸に来る。今だからこそ言えた言葉なのだともわかる。

「だから、たまにそれ以外の理由で合わせをしたかったなんても思うよ。でも特待がなかったらみっちゃんともこうやって合わせに必死になったりもしなかったんだろうなーなんて思うと、それも全部、結果良かったのかなーとかも思うし、その評価のひとつに『ファン』があるんだったら、やっぱり全部正解だったんだろうとも思う」

 思いがけない肯定の言葉の連続に言葉を失う。大人から見たらばかみたいなことかもしれないけど、学生である自分にとって先輩の言葉は、しっかりと額に入れていつでも見直せるように胸にしまっておきたいフレーズばかりだった。

「みっちゃん」

 先輩がいつものように呼ぶ。そう呼んですこしずつ距離を縮めてくれたのも、江藤颯太だった。

 練習棟の騒がしさは、防音扉を超えてノイズとしてここに届く。その心地よい楽譜の中で、いつものようにそちらを見て、三谷は先輩であり――相棒でもある江藤颯太の言葉を待った。

「もうひとつ、一緒にやりたいことがあるんだけど、いい?」

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