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 階段を上がった先にあるロビー、その黒くそっけない素材のソファに座って窓の外を見ている山岡みそらは、数ヵ月前の姿によく似ている気がした。――今年度はじめの木村門下の演奏会で、前の伴奏者とうまくいかず、駅前のコーヒーショップで一人でぼんやりと、でも胸の中には燃えるような悔しさを抱えていたときの。胸の炎を消さないようにと闘う、ソプラノの学生である山岡みそら。一人で座るとその線の細さが妙にきわだって、どこかオペラを見ているような気分になる姿だった。

 日が高いところは、あの時と違うか、と三谷みたに夕季ゆうきは思った。思って最後の一段を登りきったところで、みそらがこちらを見た。まだ講義中の生徒が多いせいか、周りに人影はなかった。遠くで生徒や先生の声がするのはわかるけれど、内容まではつかめない、そういうノイズのような学校の音に、みそらのきれいな発音が乗った。

「三谷? 葉子ようこちゃんなら帰ったよ」

「うん、さっき下で会った」

「葉子ちゃんに用があったんじゃないの?」

 三谷は首を横に振って、そのままみそらの前に来た。たしかに葉子とは会った。師匠は何も言わなかったけれど、彼女の視線には訴えかけるものがあって、今日ここに来たことは間違いないと三谷に伝えていた。

 テーブルをL字型に挟んだソファ、みそらの斜め前に来て、「ここ、いい?」と聞くと、みそらは「うん」とコーヒーショップにいるときのように軽く答えた。三谷が腰を下ろすとみそらが口を開く。

「もしかして、江藤えとう先輩のこと?」

「うん。……黙っててごめん」

「え、なんで謝るの」

 心底びっくりしたようにみそらがまたたくと、長いまつげが花のように揺れる。

「伴奏者が共通してるんだし、来月は先輩の試験もあるから」

「でもそれは院だとしてもそうだっただろうからわかってたよ、大丈夫。……なにか他にあるの?」

 みそらは首をかしげた。軽やかで柔らかく、それでいて川のように流れる髪が肩口からこぼれる小さな音がした。三谷はすこし言うのをためらった。確信はまったくないし、今、たった今、もしかしてと思っただけだ。――違う気しかしないけれど、言ってみるしかなかった。

「山岡、先輩のこと好きだし」

「好きだけど、でも院に行くことは前から――」

 言いかけて、みそらはあんぐりと口を開けた。

「え、まさか、そういう意味?」

「ちがう?」

「ぜんぜんない! ないない! あっやば、なんかこれはこれで語弊があるな。やばい」

 思いっきり慌てて、みそらは迷ったように指を組んだ。レッスン終わりだからか、いつもつけているいくつかの指輪はそこになくて、みそらの白い指がただきれいに並んでいる。

「そりゃ好きだけど、先輩としてだよ。尊敬してるし、恋愛とかじゃない」

「――ごめん、変なこと聞いた」

「ううん、大丈夫、気にしないで」

 本当に気にしていないような笑みを浮かべたみそらの返事に、内心もう一度ほっとする。――みそらは知っているかわからないけれど、江藤颯太の想い人は羽田はねだ葉子なのだから。

「わたしはたぶん、ファンなんだよ」

 みそらの言葉に三谷は顔を上げる。みそらはテーブルに頬杖をついていた。

「先輩と三谷のコンビのファンなの。それが終わるっていうのはわかってたんだけど、さっき葉子ちゃんから先輩がディプロマを受けるって聞いて、急に目の前に『終わり』って文字が出てきた気がして、ちょっと……なんていうのかな、さびしくなった」

 みそらはテーブルの上、何もないところを見たまま続ける。またあのときのようだと思った。声はまさに『ミミ』のレチタティーヴォ。アリアを歌うように音がころころと美しく転がっていく。

「……藤村先輩と、じゃなくて?」

「それはまた別。藤村先輩と江藤先輩のことはもちろんだけど、あれは……」

 みそらが今、何を考えて、何を見て、何を聞いているのか、わかると思った。あの夏――高三の夏休みの講習会で見た、江藤先輩の演奏と、それを支える前任の伴奏者である藤村先輩、そのふたりの演奏。

「ひなが最初に見たのを親鳥と思うのと同じようなものだよ。刷り込みみたいなもの。でもわたしが知ってるのは、ほとんど三谷だから」

「俺?」

「そう。一年生のときから先輩たちにくっついて練習見に行ったりしてたし。それに……」

 みそらは指を伸ばし、重ねたそれらで口元を覆った。

「今年の三月の特待生選抜試験もそう。葉子ちゃんにレッスンをお願いしたりとか、そういうのを知ってるから、わたしは三谷と先輩のファンなんだと思う。……わたしにとってはね、ふたりが憧れだったし今でもそうだよ」

 びっくりした。と思っていると、「びっくりした?」とみそらがちょっと困ったように笑いかけた。

「かなちゃんと伴奏がうまくいかなかったときにあの特待生試験の演奏を見て、ほんとに泣いたもん。初披露の恥ずかしエピソードだけど。なんでわたしはああできないのかなって思ったし、でも同じくらい、そういう人たちがいることにも救われた。だからやっぱりファンなんだと思う」

 三谷がすぐに何も返せないでいると、みそらはふふっと笑いこぼした。

「そういえばその頃だった気がする。――先輩にね、三谷に伴奏してもらえばいいのに、って言われたの。『林先輩がいなくなるんだったら俺だけになるから』って」

 初耳だった。

「だから、わたしにとってはなんか、なんだろうね、お星さまとかそういう人なんじゃないかな。わかりにくいか。アイドルとか? アイドルが引退する感じ?」

「……それ、俺も入ってる?」

「やだったらユニットに変更するけど」

「入ってるんだ……」

「入ってるよ。手に届きそうな場所にある、でも手が届かないから憧れなの。先輩と三谷は」

 思いもよらない言葉の連続だった。でも届かないとしたらそれはみそらも同じではないかと思う。みそらだって舞台に立てばいつも、誰も寄せ付けないプリマドンナそのものなのに。

「前、ひとりじゃないからって言ったでしょ」

「うん?」

「伴奏はひとりじゃないって。それがちょっと記憶に残ってて。ああそうか、伴奏ってそういうものかと思って……」

 そうしてみそらは黙った。遠くで音がする。人のいる音。風の音。楽器の音。学校前の通りを走る車の音。三百六十度すべてが音でできたこの世界で今、ふたりで同じものを追っている。

 口を閉じていたみそらは口元にあった指先をゆるゆると上に持っていく。

「ちょっと……ごめん」

 そのままふたつの手のひら全体で顔を覆う。みそらの小さな顔はそれだけで見えなくなった。

「ごめん、ちょっとだけ」

「……うん」

 うなずいて、それから付け加えた。

「まだ、ここ、いるから」

「……うん」

 こもった声がして、ほんのすこしみそらの肩が震える。そこにふれれたらいいのだろうけれど、自分にはそういう肩書がないことに気づいて、指を見る。――鍵盤を弾くしかできない指。それが悔しいのか、寂しいのか、それで満たされるべきなのか、自分でもはかりかねるもののように、はじめて見えた。

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