8-1

 電車を乗り継ぎ、一時間ほど。葉子ようこの住むマンションの最寄り駅近くにあるホールは、ピアノの発表会からパイプオルガンのコンクールまで幅広く使われている、地元では名の知れたホールだった。

 葉子も行くと聞いたので、駅で待ち合わせて小一時間ほどランチとともにおしゃべりに花を咲かせ、会場へ向かう。駅からは徒歩三分ほどと短い距離だったけれど、後期が始まった頃よりも断然秋らしくなった空気に胸がさわさわと音を立てる。

「こっちは陽が落ちるのが早いわよね」

 葉子のつぶやきにみそらは横を見た。今日の葉子は髪をゆるく束ねていて、そのアンニュイな雰囲気が秋の空気によく溶け込み、それでいて立体的で美しく見えた。

「そうなの?」

「うん。うちの地元だったらあと一時間ずつ、日の入りも日の出も遅いわね」

「へえ……」

 それなら、五限が終わっても、夏至あたりならばまだ陽が出ているということだろうか。日本は本当に広い、と涼やかな風を頬に感じながらみそらは歩いて行く。遠目でもホールの色が目にとまる。茶色は秋の色だな、と思った。日曜のため演奏会の開始時間は十五時からと早めで、青空とのコントラストがとてもきれいだった。

 入り口はレンガ調で、これまたレトロだなと思う。ここには何回か来たことがあるけれど、そのひとつひとつにこれまでの音楽や演劇、落語なんかの時間が染み込んでいるように感じられる。温かみがある一方で、すこし背中がうすら寒いような不思議な空気のある場所だ。

 チケットはふたりとも受付で受け取った。どちらも江藤えとう先輩が用意してくれていたようだけれど、葉子のほうが早く予定を入れていたらしく、席は離れていた。

「葉子ちゃん、めずらしく真ん中あたりなんだね」

 みそらが壁にある座席表を眺めながら言うと、葉子は「ピアノじゃないからね」と笑った。二階以上の座席の有無などにもよるけれど、前後で言えば真ん中よりやや後方、上手下手で言えば上手寄り、という場所がピアノを聞くにはとてもいい位置だ。よく「手が見えるから」という理由で下手前方が先に売れたりするけれど、そこに食いついてしまうのは素人のやること――というのは葉子の受け売りだ。ピアノの蓋が開いている方向を考えれば、そこが音が聞こえるベストなのだと葉子から教えてもらってからは、みそらも気をつけて座席を選ぶようにしている。

 葉子が花束を受付に預けに行っている間、みそらはロビーのベンチに腰掛けてぼんやりと行き交う人を見ていた。今回は招待券ということになったので、そのぶん葉子と出し合った花束代を多く持とうと思っていたけれど、「ここはきちんと折半よ。大人に恥をかかせないの」とさらりと釘をさされてしまった。その代わりといってはなんだけれど、見立てはかなり気合を入れた。葉子とイメージは一致していて、明るい緑色の花束になった。ランチの前に葉子とこの花は入れたい、これはちょっと違うと言いながら駅の花屋で包んでもらったのも、今日のハイライトのひとつだ。

 ロビーの雰囲気はあまりかしこまったふうではなく、ラフな格好な人も多い。年齢層も若めなのかな、と思いながら――そういえばあの時もこうやってぼんやりとしていたことを思い出した。三月の、特待生選抜試験の本選のときだ。

 時間が違う、とは思う。あのときは夕暮れの時間だった。ガラス越しに見た葉子と江藤先輩のシルエットがとてもきれいで、その後にかかってきた木村先生の電話が胸の奥にずしりと落ちていく。――あの頃と、自分はどれほど変われただろうか。

「預けてきたよ」

「うん、ありがとう」

 葉子が隣に腰を下ろす。顔の輪郭と流れる髪、首筋から肩、ウエストから腰、太もも、ふくらはぎ、足首、そしてパンプスのつま先までが水が流れるように美しかった。このくらいなにげなく、曲線を描けるようになりたいものだとうっかりときめいてしまう。と同時に思い出す。先輩の想い人はこの羽田はねだ葉子なのだ。何がきっかけで先輩が葉子のことを恋愛対象だと思うようになったのかはわからないけれど、対象になる、ということはよく理解できるとみそらでも思う。これほどきれいだったら舞台でも相当映えるし、実際舞台上で演奏する葉子は本当に美しい。

「今日は山本先生も最後に演奏をされるのね」

 座席が離れているので開演近くまでここで話していよう、ということになった。葉子が膝の上で二つ折りの簡素で持ち運びやすいパンフレットを広げる。みそらも同じように広げた。

 山本先生を入れて、メンバーは六名。中には女性の名前もあるし、以前山本門下の生徒として活躍していた卒業生の名前もある。それぞれにコンクール受賞歴や現在の所属などがあり、専攻は違うけれどその文字列に目がくらむ。その中にあって、江藤颯太そうたとそのピアノ、三谷みたに夕季ゆうきの文字列はみそらの胸をやたらとどきどきさせた。

「うわー、なんか……わたしがなんとなく言ったことがこんなことになるとは」

 経緯を知っている葉子はそれを聞いて軽く吹き出した。

「みそらの落ち着きのなさ、本当に『ファン』って感じよね」

「そう?」

「うん。なんだろう、木村先生の舞台とかもそうじゃないかなとか、あとほら、バンドも好きだったでしょう。そういうときもこうなのかなとか、今ちょっと思ってます」

 顔をかたむけて言う葉子は、本当に姉のようなやわらかさがあると思う。みそらはふと自分の格好をちらりと見直した。このAラインのワンピースは、以前三谷と一緒にコンサートに行ったときにも選んだものだった。黒メインだけれどもよく見ると刺繍が細かくて、そういうところが好きな服だ――作り込まれた楽譜のようで。

「……服に気合いを入れたな、という自覚はあります」

 みそらが小さく言うと、葉子はあははと笑った。

「本当は葉子ちゃんみたいな大人っぽいのがいいんだけどな」

「似合うと思うけど、みそらが一番映えるのは今の服だと思うんだけどなあ」

「葉子ちゃんってイエベだから、ボルドーもテラコッタも似合うもんね。わたしがやるとちょっと違うんだよなあ」

 先日のファンデーションの話の続きのようになってしまったけれど、こういう話ができるのも、葉子のよさのひとつだ。

「でもみそらはブルベだから何色でも合うし、舞台衣装もかなり映えるでしょう。木村先生だったらそういうところも気にされるでしょうし」

 葉子の言う通りだった。学内だろうと演奏会での衣装で野暮ったいものを選べば「みそら、いいかい、その服、誰のための服なのかわかってる?」と呼び出しをくらってしまう。みそらは黒いスカートの上に乗せた自分の手、その白い指にあるシルバーのリングを見た。シルバーが似合うのは白い肌だからこそだ。

「親に感謝だよね」

「そうね」

 葉子が微笑む。――本当にそうだ。こんな学費が高い学校に行かせてくれて、演奏会のチケットや楽譜代、衣装代さえも生活費に入るような生活、よくも許してくれたものだと思うし、裏に相当な苦労があるということもさすがに理解している。容姿や体質だけの問題ではなく、自分が音楽を続けることにおいて恵まれているということを、生活の中でふと突きつけられる瞬間だった。

 視界の隅になにか引っかかる。視線をやると、同学年の管楽器専攻の友人がいた。クラリネットの女子だ。軽く手を振るのでみそらも振り返すと、「がっこうでね」と相手が口を動かしたので、みそらもうなずく。葉子には会釈をし、葉子も同じように返すと彼女を目で負いながら言った。

「今の子、クラだっけ」

「そう。うちの学年の管の特待」

「仲良かったのね」

「うん、体育とか教養関係の講義で知り合って」

「管の子たちってフットワーク軽いのかしらね。ピアノってなんとなく腰が重いというか。専攻オンリーじゃない演奏会にはあまり足を運ばないあたり、保守的というかなんと言いますか」

 フットワークが軽い人物の代表格といえば、それこそみそらの中では江藤先輩だ。ここに三谷を巻き込んだその影響力も、そういった点から来ているのではないかと思うこともある。

 ブザーが鳴る。開演五分前だ。


(8-2に続く)

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