9

 声をかけられたのは、それからさらに一週間後のことだった。みそらは教室移動の途中で、諸田と久しぶりに行きあった。避けていたわけではないが――いや、避けていたのかもしれない。

「みそらちゃん久しぶり。今トスカやってるんだね」

「ああ、うん……」

 相手のあまりの屈託のなさにみそらが若干尻込みしながらうなずくと、諸田は本当に悪気のない様子で続けた。

「びっくりしたよ、コンクール出るって聞いて」

 人の口に戸は立てられない、とは思った。けれどそれはそれでいい。ただ――ひとつ、引っかかった言葉がある。みそらは首を傾げて、言った。

「――びっくり?」

「うん、まだちゃんとそういうの行くんだなって思って」

 たぶん本当に悪気はないのだろう。しかし、なんというかそれは、少なくともみそらにとってはものすごいひと言だった。

 ――あの時見た舞台を。これまでの練習を。自分の絶望を。あの夜の決断を。あたらしい伴奏者との時間を。

 軽んじられたわけではないと思う。けれど、結果、そうとしか聴こえないような。そんな、――失望。

 みそらは吸った息を、ここ二週間ですっかり調整がきくようになった腹筋でぴたりと止めた。そしてにっこりと笑った。

「なんで?」

 舞台用の笑顔――つまり、戦闘用の表情になったみそらに、相手は若干ぎくりとしたようだった。

「かなちゃんもがんばってね」

 相手の返事を聞かずにそれだけ言うと、みそらはじゃあねと言って立ち去った。



 練習室の扉はレッスン室と違って一枚だが、それでも重さはレッスン室とほとんど変わらない。しかしそれを思いっきり開けたみそらに、先に部屋にいた三谷夕季ゆうきはぎょっとして入り口を振り返った。

 廊下の奥から他の生徒の談笑する声が聞こえるが、二人の間には張り詰めるような空気がある。三谷は空気を極力震わせないようにそっと言った。

「……なにかあった」

 みそらの頬はわずかに紅潮しており、元来長めのまつげははっきりと上向いていた。扉がゆっくり閉まるのを待って、みそらは同級生に向かって言った。

「Questo é il bacio di Tosca」

「……なに物騒なこと言ってんの」

 言った言葉が通じたことにみそらは思わず笑った。その笑い方が楽しいだけのものではなくどこか激しさを含んでいるのは自分でもわかる。「なにそれ」などとは決して言わない三谷の反応が今この時、本当にありがたい。

「Questo é il bacio di Tosca」――これがトスカの口づけよ。この言葉は劇中でトスカが敵役であるスカルピアをナイフで刺した時に言うセリフだ。

「トスカの中で一番好きなのがこのシーンなんだ」

 一息に、みそらはそう言った。

 恋人の命と引き換えに自分の体を求めてくる相手を衝動的に刺したトスカは、虫の息のスカルピアに何度も「死ね」と吐き捨てる。そして事切れた相手を前にふいに我に返り、ナイフを取り落とすとスカルピアの頭の左右にろうそくを、体の上に十字架を置いてトスカは立ち去るのだ。奔放で衝動的、嫉妬深く激情家、そして敬虔なキリスト教徒であるトスカの本質が垣間見えるシーンである。その彼女がこのシーンの直前に歌うのが、『歌に生き、愛に生き』だ。

 ――先ほどの諸田の言葉には「まだやめてないの」という裏があったと思う。

 音楽はいつかやめるもの――そういう含みを、彼女は知らずに使っている。そこに気づいた瞬間、みそらは今度こそ落ち込むことができなかった。――腹立たしかったのだ。

 なんで、やめる前提で歌わないといけないの。――わたしの歌を、なんだと思ってたの。

 昨日まで、落としてきた音楽を拾ってきたと思っていた。でもわたしはどうやら、一番大切なものを忘れていたようだ――と、みそらはさっき、ほんのさっき気づいたのだ。

 三谷が言っていた「ソプラノらしい」という言葉。それは一体何だろうとぼんやりとは考えていたが、今わかった。

 闘志、熱量、負けん気。とにかくそういう、苛烈なまでのエネルギー。

 ほのおのようなそれを、なぜわたしは今の今まで忘れていられたんだろう。そう思うといっそう伴奏者に申し訳なくなった。

 なんという失礼なことをしたのか。わたしの音楽は、これではない。もっと、もっと熱量にあふれているものを生み出したい。そうでないと「トスカ」だとは言えないし、そもそも「山岡みそら」でもないのだ――

 みそらはまっすぐに、自分の伴奏者を――相棒を見つめた。

「そういうことを平気で言える大人になりたいと思うんだけど、付き合ってくれる?」

 ピアノの前に座ったままの三谷は驚いたままみそらを見つめていたが、ふいに顔を伏せて笑い出した。張り詰めていた空気がやわらぐと、まるで星空に夜明けの光が混じり始めたようだとみそらは思った。

「いいと思うよ、山岡らしくて」

 そう言うと、三谷は顔を上げた。そしてどこか嬉しそうに笑って言った。

「うん、――飛び降りるまで付き合う」

 トスカの最後のシーンを連想させるセリフに不覚にも泣きそうになる。これ以上に信頼できる言葉はないな、と、みそらは思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る