8

「……今の」

「何でしょう三谷みたにさん」

 一度曲を通した後に、おもむろに三谷が口を開く。この後の展開を瞬時に予測して、思わずみそらはさん付けになった。

「『Signore』の部分だけど、ペダルどのくらい残す? 毎回そっちの伸ばし方に合わせて変えてるけど、微妙にまだ消えるタイミングが定まってない感じがする」

「……ごめん、ちゃんと調整できるようにする。わたしの腹筋の耐久性の問題だわ」

 指摘されたのはこの曲の最高音がある「大サビ」の部分だ。高音、かつロングトーンという見せ場であるぶん、体力的にも表現的にもいちばん難しい部分のため、どうしても音がすくんでしまったり、ぶれたりする。

 一方でそれをどう支えるか、どうタイミングを合わせるかというのが、伴奏の腕の見せどころでもある。指摘内容は伴奏ならではの視点であり、ペダルの踏み込みの深さや、音の消し方まで汲んで演奏してくれるのは非常にありがたいことだ。それどころかかなりフォローをしてもらっている部分も多い。

 二人で練習をはじめて、今日でやっと一週間ほどだ。その一週間の練習は、おそらく諸田とやる三ヶ月よりもきちんと内容や曲のアナリーゼ(楽曲分析)に踏み込んだものなっていて、みそらは楽譜をもう一度見ながら小さく唸った。楽譜には自分の勉強のほか、伴奏とのタイミングなどの書き込みも増えた。

「念のため訊いとくけど、出しゃばったな、とか思ってない?」

「ないない! そういう指摘はどんどんしてほしい」

 聞こえた声にみそらが大真面目に返すと、それならよかった、と三谷が笑う。と、張り詰めていた空気がふわりとやわらいだ。こういうところもトランスフォームだなとみそらは思う。

「こういうの、江藤えとう先輩とだとあっちから言われるからつい考えちゃって。音の残し方までちゃんと聴いてとか。あの人、相当耳がいいんだよな」

「へえ。やっぱり特待生は格が違うなあ」

 みそらは本気で感心したが、三谷はいぶかしむように眉根をかすかに寄せた。

「なに他人事みたいに感心してんの。山岡だってこっちがタイミングずれたらめっちゃ嫌そうな音になるのに」

「え、わたしそんなことしてる?」

「してるしてる。ペダルの伸ばし方とそっちのトーンがずれたりしたら音が苛立つ。だからさっきのも確認したんだけど」

「音が苛立つ……? もっかい聞くけど、わたしそんなことしてる?」

「してるよ。そういうところが崩れても崩れきれないゆえんだよな」

 崩れても崩れきれないとは、おそらく去年から今年にかけての諸田との演奏とのことだろう。しかしまったく自覚がないみそらは頭を抱えた。ここ数ヶ月の遅れを取り戻すのにいっぱいいっぱいで、まだまだ客観的な見方ができていないのかもしれない。

 こんなやり取りからも、これまでとの伴奏合わせの差をひしひしと感じる。三谷の場合、歌詞の対訳を渡せばほぼ覚えてくれるし(さすがに主科でもないのに全部をというのは酷だ)、合わせの時間を取ることにもためらいがない。相談のすえ、練習棟に空きがない場合は、三谷の部屋を使うことになった。今までよく暇つぶしの練習みたいなことはしていたけれど、今ではまさに学内・学外で生き残るための共闘のように感じることも多くなった。

 今日も練習室の空き状況とのタイミングが合わず、黒いグランドピアノが鎮座する三谷の部屋で練習している。今までのどれよりも密な練習内容に、自分が先ごろまでどれほど怠けられる場所にいたのかを痛感していた。木村先生の怒りももっともだというものだ。誰を伴奏者に据えるかというのは、わかっていたけれど、こんなにも大切な要素だと今更気づくとは――

「一回休憩する? ちょっと声かすれてる」

 その伴奏者に言われ、みそらははっとした。つい前のめりになってしまうみそらに三谷がブレーキをかけてくれるのも、今回がはじめてではない。

 ピアノは一日八時間弾いてなんぼのザ・スポ根の世界だが、声楽は声帯を傷めないように時間と体調に非常に気を使う。ピアノがデリケートではないということではなく、使う筋肉が違うのだ。

「今日、そっちの授業に合唱あったろ?」

 指摘されて納得した。九十分すべてが実技に充てられるわけではないが、いつもより声帯を使っているのはたしかだ。三谷の脳内カレンダーは一体どうなってるんだとみそらがいぶかしんでいると、三谷は立ち上がってピアノの真後ろにある部屋のドアに体を向けた。

「お茶いれてくるよ。預かってるやつでいい?」

「あ、うん、――ありがとう」

 みそらがうなずくと、何かに気づいたように三谷は体の向きを戻して、ちょっとの間みそらを見つめた。

「なに? 体調悪そうに見える?」

「ああ、そうじゃなくて――」

 と、三谷は自分が今しがた離れた場所――鍵盤の正面を指差した。

「弾く?」

 言われた意味がわからずみそらはぽかんとした。一瞬ののちに頭の中で言葉がつながると、驚きと喜びが一緒にやってきた。

「え、いいの? 弾いていいの?」

「うん。ただ待ってても暇だし、こいつも色んな人に弾いてもらったほうが嬉しいんじゃないかな」

 発声練習もしないほうがいいし、だとしたら譜読みか、と考えていたところだったのでみそらは素直に嬉しくなった。しかも三谷の言葉は、楽器のこと大好きな人の言い方だ。

「洗面所借りるね」

「うん」

 廊下兼キッチンでポッドのスイッチを入れる三谷の横をすり抜け、みそらは隣の洗面所でしっかりとハンドソープで手を洗う。鍵盤を触る前にこうするのはマナーだ。

「ドア開けといていいよ」

 本来ならば部屋の扉を閉めないと、防音がしっかり働かない。けれど三谷はそう言った。少しの気恥ずかしさはあるが、そこは持ち主がそう言うのだから、今は弾ける楽しみを優先したい。

 椅子の高さを調節させてもらって、白と黒の鍵盤の正面に座る。三谷のピアノの譜面台の下部分はホコリが入らないように専用のカバーが覆っているのだが、合わせのときは本番の環境に近づけるために半分だけ蓋を開けていることもある。そうすると、隙間から奥に向かって、金色の弦が輝いて走っているのが見える。

 大きな黒い筐体の中、斜めに交差するように何本もの弦が張り詰めている。なんともいびつで、それだけに魔物のように美しい楽器こそが、グランドピアノだ。

 何を弾くかは手を洗いながら決めていた。みそらは息を吸うと、体の中から三拍子を呼ぶ。吐く息に乗せて、最初のアウフタクトを滑らせると、――ふわりとショパンのワルツが空間に広がった。

 この学校はひとり暮らしの生徒が多いが、楽器の特性上、ピアノ専攻の生徒の部屋は他の専攻の生徒より半畳から一畳ほど広い。そこに自分が紡いだ音が広がっていくさまにみそらは一瞬、自分の演奏ながら見とれた。演奏技術にではない。ピアノ本来の美しさをそのまま可視化したようだったのだ。

 ショパンワルツの十番は、レッスンで合格をもらったあとも自分で弾き続けている。せっかく覚えたピアノ曲だし、何より文学的で絵画的にも思えるメロディラインがとても好きだと素直に思う。

 この曲はショパンワルツの中でも初期のものらしく、葉子ようこによると当時十九歳だったショパンは、ワルシャワ音楽院の歌姫に恋をしていたらしい。――この曲もまた、恋の歌だった。

 ショパンのメロディラインや和声の作りは、ほんのわずかな言い回しの違いを思わせる。それがワルツの動きを想起させて、たとえば似たふたつのフレーズは踊る二人の距離が近寄るか、それともターンをするかの場面の違い――踊っている時間の経過を思わせた。

 ああでも、このピアノはやっぱりぜんぜんちがう。みそらは弾きながら思った。練習室の名前のないピアノでもなく、自分が借りているアップライトピアノともちがう。確固たる、ただ一人のピアノの音がする。

 首筋がほんの少しびりりとするのがわかった。ああそうか、この音は三谷の音でもあるんだ。ちょっとした残響や倍音に、彼の色がある――

「……こないだ聴いたのよりうまくなってる気がする」

「え、ほんと?」

 最後の残響が消えた頃に聴こえた声に、みそらは驚いて顔を振り向けた。三谷はドアの横に立っていてうなずいた。

「うん。ちゃんと山岡の色になったって感じ。やっぱり耳がいいんだよ」

 みそらは少し呆然としてしまった。さっき自分で思ったことがまるで鏡のように返ってきた。けれど三谷は気づいていないようで、そのまま一旦キッチンに戻った。

 もう一度正面を向くと、仄暗く金の弦が見える。――内臓だな、とみそらは思った。わたしたちは自分自身の内臓を震わせているけれど、ピアノはこの内臓を震わせて音を鳴らすのだ。

 三谷が両手にマグカップを持って戻ってくる。カップの七分目ほどで揺れているのは、みそらがよく飲んでいるハーブティだ。「練習に必要ならうちにティーバッグを置いとけば」という友人の言葉にちゃっかり甘える形になっている。

「――でも、このピアノはちゃんと三谷の音がするよね」

「そう? それなら良かった」

 そう言って笑った三谷はテーブルにカップを二つ持っていく。みそらも椅子から立ち上がった。

「受験に合わせて買った楽器だから、まだ若くて。その分、最初の頃は音が尖ってて困ってたんだよな」

「今と音が違う?」

「たぶん、だいぶ変わったと思う。ああそうだ――この楽器メーカーの工場に有名なピアニストが使った二台のピアノが展示してあって、見学に行ったら自由に弾けるんだけど」

 二人は小さなテーブルにカップを置いてラグに腰を落ち着けた。

「片方が五十年くらいのもので、もう片方が三十年ものくらいかな。サイズやシリーズは似てるはずなのに、音がぜんぜん違うんだ。古いほうはいぶし銀って感じで打鍵も深くて、若いほうはかなりブリリアントな音で、打鍵もまだあたらしい木の感覚がする。ちょっと硬いというか」

「そんなに違うんだ」

「機会があればいってみるといいよ。あまりの差に愕然とするから。値段も一千万クラスだから、タダで触れると思えば」

「いっせんまん」

 みそらは絶句した。そんな高価なものに触れるとか、メーカーは太っ腹にすぎる。――そう思って、息が抜けていく。

「――やっぱり、わたし三谷と友だちでよかったな」

「それ、前も言わなかったっけ」

「うん。また今も思った。――わたし一人じゃ、そういうことを知らないままだったよ」

 前回は外の世界のことを思い出せるから、という意味で使った言葉だったけれど、今は内面――音楽についてそう思えている。それが不思議だと思いながらみそらはマグに口をつけた。慣れた香りが、ほどよい温度でふわりと広がる。

「――葉子先生が俺に伴奏を勧めるのもそういうことかな」

「うん?」

「自分の楽器だけじゃわからないことを学んで、自分の楽器に返す。たぶんそれが合奏の本質なんじゃないか、とか、最近ちょっと思う」

 みそらは薄い飴色をした水面を見つめた。――楽器も人間と同じだ。

「そうだよね」

 うなずいて、少しだけ諸田のことを思った。けれどすぐに忘れるようにした。たぶん三谷もわかってて黙ってくれている。

「俺としては、この紅茶店にこういった喉にいいお茶があったってのも新発見。ちゃんとおいしいし」

 付け加えられた最後の言葉にみそらは思わず微笑んだ。

「でしょ。地元の先生のオススメだったんだよ」

 それからいくつか講義内容を共有しているとカップは空になった。片付けると言う三谷に自分のものを渡して、みそらは立ち上がった。紅茶と一緒に、身体の中になにかあたたかさのようなものが巡っている気がする。

 ピアノの前にスタンバイして、みそらはゆっくりと呼吸を繰り返した。体中に酸素が行き渡ると、心なしか視界がクリアになるように感じられた。

 腹筋だけではなく、背筋、腰回りまでしっかりと締め上げ、頭は空から吊られたように、そして顎は上げすぎず、引きすぎず。体の中に大きな管を一本通してそこを思い切り震わせるように。

 ――『歌に生き、愛に生き』の出だしの和音が響く。現代日本から一八〇〇年代のイタリアへ。世界がまるで変わってしまうような音に知らず肌が泡立つ。この感覚はいつになっても新鮮だ。三谷の音楽は、本当にきもちがいい。

 体力的なつらさはあるものの、心は軽やかだ。そう思うたびにみそらは、自分からも音楽が抜け落ちていたことに気づくのだ。

 あの頃伴奏に合わせることでひとつずつ落としてきた音を、もう一度丁寧に、ひとつずつ拾いあげていく。伴奏合わせはそんな時間のようだと思いながら、みそらは最初の音を口にした。

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