7

「今日はエノキダケじゃなくてよかったの」

「だから昨日のは間違えたって」

 言ったじゃん、と続ける前にトールサイズのコーヒーを手渡され、はずみで受け取る。

「ありがとう」

 みそらは代理で買ってきてもらったカップを手に握り込みながら素直にお礼を言った。今日はサイズを間違えたわけでもなければカップが白色でもない。ストローを回すと氷が軽やかな音を立てて踊るアイスラテだ。昨日と同じ席に座ったみそらは背もたれに背を預けた。

「はー、へこむ。一時間ちょっと練習しただけで酸欠でくらくらするとか、へこむ。めっちゃへこむ」

 互いに担当講師へと報告を済ませ、次に二人がさっそくやったのが伴奏合わせだった。「山岡やまおかだって、俺がちゃんとやれるか確認したいだろ」と言われて始めたが、そもそもこれまでの三谷みたにの結果を見ていて確認もなにもないというのがみそらの感想だ。

 とはいえ練習室が空いていれば迷いなく部屋を取るのが二人の常だ。みそらが持っている楽譜を急遽コピーして始まった練習だったが、みそらを芯から疲れさせるには十分だった。

 みそらが今渡されているのは、ベッリーニ作曲のオペラ「夢遊病の女」から『ああ、信じられない』、そしてレスピーギ作曲の歌曲『ネッビエ』、それに練習曲が数曲だ。

 ベッリーニの『ああ、信じられない』は練習用としても使われる比較的有名なアリアだ。声楽の伴奏経験がある三谷のことなので知っている可能性はあると思っていたが、みそらが驚いたのは『霧』のほうだった。こちらは歌曲のため、伴奏におけるオーケストレーションを考える手間は必要ないと言えるし、技術的な難しさはさほどない。しかしそのぶん、解釈が深く、さらに歌い手に合わせる気がないと到底演奏できない曲だ。――つまり前任の諸田には絶対に無理だと思って伴奏譜を渡してすらいなかったのだが、歌詞の訳の説明と実際の練習の間に、三谷はほぼ伴奏に必要なことを理解してしまった。

 おかげで焦ったのはみそらのほうだ。非常に深く深く息を使い、音程の上下も激しいこの曲を伴奏者が容赦なく進めてしまうので、先にベッリーニもやっていたみそらは声を枯らす前に酸欠になってしまい、――今に至る。

 隣に腰掛けた三谷の様子は、練習前と一切変わっていない。悔しいくらいに練習量の差を見せつけてくるなあ、とみそらは舌の上で苦いものを転がした。

「体力面に関しては、山岡だけが悪いんじゃないと思うけど。諸田さん、音小さいから、ここ数ヶ月でもけっこう調整したりしてただろ」

「ああ、したね……」

 見破られたところでみそらはもう驚かない。しかし三谷はまじめに続けた。

「それがそもそもだめなんだよな。……伴奏は合わせてもらっちゃだめなんだよ。ソリストが主役なんだから」

 ごく当たり前のことを言われたのに、なんだかみそらは感動してしまった。昨日までは自分が伴奏に合わせることに精一杯で、合わせた先――なんというか、音の着地点とか、音の放物線の描き方といった、音符の奥にあるものまで気が回っていなかった。ここが一番大切な部分にあたるのに、だ。

「うん……ありがとう」

 こぼれるように出た言葉だった。みそらは空を見ながら続けた。空は昨日と同じように澄んでいて、夜を待ちわびているようだった。

「久しぶりに楽しかったな、合わせ。最近喧嘩してなかったから、やっぱり喧嘩しないとなって思ったよ」

 喧嘩とはたとえだ。けれど三谷には齟齬なく伝わったようだった。

「……実はエゴかもしれないって考えてたんだけど、そう思ってもらえたんならよかった」

「エゴ?」

 意外な言葉にみそらが聞き返すと、三谷はちょっとだけはにかんだようだった。

「伴奏者としてのエゴ。なんていうか、まあちょっと……腹が立ってたんだ」

 それは諸田にだけではなく、彼女を切れなかったわたしにもだろうな、とみそらは思った。

 けれど、そうやってそれぞれが思う「音楽」をぶつけてきてくれる友人がいることに、今は素直に――心の底から感謝している。

「でも、わたしにはそれが必要だったよ」

 みそらの言葉に、三谷は、そう、とだけ返したようだったけれど、その声にはたしかに嬉しそうな色が含まれていた。

 駅前の雑踏の音があたりを包む。ふとみそらの耳に先ほどの木村先生の言葉がよぎった。

 きみはあたらしい贈り物を受け取ったんだ。それを大切にしなさい。――ああいう言葉が嫌味なく似合うのが、みそらの大好きな師匠だ。

 カバンの中を探って、もらった要項を取り出す。三谷も気づいてカップをテーブルに置いた。

「それ、さっき言ってたコンクールの」

「うん。アリアと歌曲を一曲ずつで、十分以内。どれにするか考えてみろって」

 歌曲とアリアではまったく性質が違う。歌曲は基本的にそれ一曲で完結するのに対し、アリアはオペラというひとつの物語の中にある。ミュージカルでたとえるなら『メモリー』や『レット・イット・ゴー』だと思ってもらえればわかりやすいかもしれない。物語性やキャラクター性に自分を添わせることが、オペラの難しさの本質部分とも言えた。

「候補、もう考えた?」

「うーん、やりたい曲はあるけど、どうだろう、現実的かどうか……」

「もしその『現実的』に伴奏が含まれてたら、それは外して」

 穏やかだけれどはっきりした言葉だった。みそらが驚いて顔を上げると、三谷は少し笑ったようだった。

「伴奏者に遠慮せず、ソプラノらしくわがままでいればいいんだよ」

「ソプラノらしくに続く言葉がそれって、どんな先入観よ……」

 思わずそう返したが、みそらは胸が軽くなるのを自覚した。――そうか、曲選びも変に気を使わなくていいんだ。

「前言ってたムゼッタの曲は?」

「先生に聞いてみる価値はあると思うけど、今からやって間に合うか……それと、あれはちょっとコンクール向きか判断しかねる……かな」

「そうなんだ」

「うーん、コンクールごとの傾向にもよるかも」

「ドイツ歌曲は? 林先輩の時はレッスンでやったくらいだったけど」

「ああ……聞いてるかもしれないけど、イタリアのベルカントとドイツの歌い方って全然違うの。そのあたりはきちんと分けるって、入学してすぐに先生から言われてる」

「言語自体も違うし、そりゃそうなるか」

「そうそう。それで言うとまさに日本歌曲とか……」

 と言いかけて、みそらはふと口をつぐんだ。こんな話、諸田とはほとんどしたことがなかった。

 付き合うよ、と、三谷は簡単な言葉で言ってくれたけれど、彼には彼の時間がある。その中に今日から、山岡みそらが入り込んだ――今度は、友人としてではなく、いわば舞台の相棒として。それは、彼に伴奏をしてもらうに値するだけの表現者でなければならないということだ。

 諸田は捕まえることができなかったけれど、せめてこれから先、この友人にだけは愛想を尽かされないようにしよう――絶対に。

 みそらがそう決意をしていると、三谷は怪訝そうに首をかしげた。

「どうかした?」

「あ、いや、ごめん」

 みそらは首を横に振って、それからふと顔をもう一度友人に向けた。――今言うべきは、謝罪の言葉ではない。

「ありがとうね。昨日も、今日も」

 本当は、その前からかもしれない。けれど、きっと、全部言わなくてもわかるのだろうと思った。それくらいの間、自分たちは友人同士だった――ちゃんと、音大生として。

 三谷が笑って、どういたしまして、と言う。それを聴きながら空を見ると、初夏の藍色に沈みはじめていた。あの特待生選抜試験の時に似た星を見つけると、なんだか今日は花が一輪咲いているようだ、とみそらは思った。



 数日をかけて選んだ曲は、アリアに『歌に生き、愛に生き』、歌曲に『最後の陶酔とうすい』になった。

『歌に生き、愛に生き』はプッチーニの代表的なオペラ「トスカ」の中の一曲だ。作品タイトルにもなっているヒロインである歌姫、フローリア・トスカが歌う名曲である。

 ただこの曲は非常に難しく、決断するまで時間がかかった。技術的にもだけれど、内容もだ。今の自分にこの歌詞が背負えるのか、という思いはどうしてもちらついてしまったが、――せっかくコンクールに参加するチャンスをもらえたのだ。みそらは清水の舞台から飛び降りるくらいの思いきりで、好きな曲をやってみることにした。

 そのぶん、歌曲を以前やったことのあるレスピーギの『最後の陶酔』にし、練習時間のバランスにも配慮したつもりだ。

 三谷はといえば、知っている曲はともかく、知らない曲があればさっとスマホで曲を調べ、この曲はみそらに合っているとか、なんとなくイメージと違うなどといったことをさらりと言うくらいだった。――本当に、伴奏の難易度は関係なく。しかもその意見はおおむね、みそら自身が考える自分の得意不得意と一致していた。

 その後、木村先生にこの二曲を報告すると、「うん、いいんじゃない」とあっさりとOKが出た。

「この二曲だと結構な力技って感じだけど、みそらに合ってると思うよ。レスピーギはやったことあるから安定感があるしね」

 木村先生の意見はそれくらいで、言っていた提案はなく、もしかして嵌められたのだろうかとみそらは首をひねった。しかしともかく、曲は決まった。あとは練習あるのみだった。

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