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一方のみそらといえば、こちらも木村先生のレッスン室にいた。チャットでの連絡を受けた先生が、時間があるならじかに話そうと言ってきかなかったのだ。これはご機嫌な証だ、と思ったみそらは素直に呼び出しに応じた。
「よかったじゃないか。三谷なら僕も安心だよ。香織が卒業してうちの門下からいなくなってしまって残念だったけれど、みそらが連れてくるとはね」
うわあ、わかりやすくべた褒めルートだ、とみそらは内心で舌を巻いた。プラスの感情を率直に表現するのが木村先生だ。これは本当に嬉しいんだなあ、とみそらは今日はじめて心底ほっとしている自分に気づいた。
「すみません、相談もなしに伴奏者を変えてしまって」
「いや、みそらならやれると思っていたよ」
やれるというより、あの目は「やれ」という命令でしたよね、とこれまた内心で昨日のことを思い出す。――そう、まだあれは昨日のことだ。二十四時間もしないうちに、こうも心境も環境も変わるとは。
けれど――たしかに、動いてみて正解だった。良い目が出る方向にたまたま動いたのだと思うけれど、動かなければここでこうやって穏やかに話せていなかったことは間違いない。
「三谷の伴奏にはセンスがあるね。コレペティトールとしてもやっていけそうなんだが、彼もきみと同じく一般就職を希望しているんだろう? 残念だ」
コレペティトールとは伴奏専門のピアニストのことを指す。オペラなどの練習時、オーケストラの代わりに全編を受け持ち、ときには指揮者のようなこともするらしい。
先生は椅子の背もたれにゆっくりと背中を預けた。そのようすは昨日の姿に似ているようで、しかし雰囲気はまったく違った。
「まずは安心したよ。諸田くんでは正直、みそらがもたないと思っていたからね」
「……そうですね」
一瞬詰まったものの、もはや認めざるを得ない。みそらがうなずくのを見て、木村先生はグランドピアノの上から紙を取り上げ、みそらに差し出した。深い緑色のリーフレットだった。
「諸田くんのままでは無理だろうと思っていたが、伴奏が変わるとなると話は別だ」
「もしかしてこれ、去年言ってたやつですか」
白い文字で書いてあるのは、とある声楽コンクールの募集要項の文字だ。たしか先生は、昨年から「来春は外部のコンクールにも出てみようか」と言っていた。二つ折りのリーフレットを裏返し、みそらは二度、三度と瞬いた。
「……先生これ、締め切り終わってます」
「ああ、申し込んでおいたよ。曲は後から申請すればよかったから」
さらっと言われてみそらはぎょっとした。「先生、それ――」
しかし木村先生は涼しい顔でみそらより先に続けた。
「伴奏がまともになれば、と思っていたからね」
伴奏がまともになれば。心の中でみそらは繰り返した。伴奏が? わたしじゃなくて?
しかしそこに踏み込む勇気は、今はまだ持てなかった。ただ、――申し込んでいてくれたのかと思うと胸が熱くなる。先生はまだ、わたしのことを見ていてくれたのだ。
ふいに目頭が熱くなりそうな気がして、みそらは息を吸い込んだ。そうしてもう一度リーフレットを見直す。
「歌曲とアリアが一曲ずつ……」
みそらが要項に書いてある規定を呟くと、先生はどこか満足そうにうなずいた。
「そう、合わせて十分以内だ。僕のほうでも案を考えておくから、次のレッスンまでにみそらも考えてみてくれないか?」
「……わかりました」
じわりと胸に嬉しさが広がる。なんだかやっと、時間が前に進みはじめているような気がする。
「諸田くんのことは残念だったけれど、彼女は音楽の神様と向き合うのをやめたというだけだ。気にすることはない」
オペラの一節のような言葉が、張りのある低音を響かせる。リーフレットから視線を上げたみそらに先生は甘く微笑んで、まるで神父か司祭か――いや、ファントムのような雰囲気で言った。
「きみはあたらしい贈り物を受け取ったんだ。それを大切にしなさい」
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