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 羽田はねだ葉子ようこはいつもの位置に立ち、左手にもつスマホを眺めていた。栗色に染めた豊かな髪が、部屋の光を弾いて黒いピアノの上に流れている。

「みっちゃんさあ、どうやったらこんなふうになるの? みそら、きみの心配しまくりよ?」

「それは俺が訊きたいんですが」

 数時間後に三谷夕季がいたのは、自分の主とするピアノ専攻のレッスンだった。彼はいつも通り譜面台に楽譜を並べながら、担当講師の言葉に疑問を返した。

「山岡ってこんなところで気を使うっけ……」

「うーん、そうね……」

 愛弟子の言うことはもっともだ、と羽田葉子は思った。

 山岡みそらは――おおざっぱに言えばだが、本来、自分の意志を貫く代わりに相手の意志も尊重するタイプで、女子の中でも竹を割った、と言われる部類に分類できる。その彼女が今回の友人の申し出に戸惑うのは、しかしここ数ヶ月の彼女ならば仕方ない気もした。

 三谷みたに夕季ゆうき江藤えとう颯太そうたの伴奏をした特待生選抜試験、その会場でみそらが泣いたことを葉子はもちろん誰にも言っていない。ただ、みそらの気持ちは十分すぎるほどわかる、と葉子は思う。

 自分が伴奏に悩んでいる時に、あんなに完成されたものを聴かせられたらたまらないだろう。みそらの中で知らず、自分の評価が下がっているのは間違いなかった。なのに今回、その相手が伴奏を申し出てきたのだ。みそらの混乱は、自己評価と他者評価のずれのあらわれだった。

 しかし、歌のフィールドで彼女をフォローするのはわたしではない、と葉子はみずからを戒めた。それは木村先生の役目であり、自分はあくまで副科ピアノの講師でしかない。

 そして今回伴奏を申し出た三谷夕季は、自分が担当している生徒だ。葉子にしてみれば、満を持して、という感覚だ。

「何にせよ、みっちゃんに気を使ってるのは確かなんだから、きみがしっかりしないとね。ここでのレッスンも、講義も、伴奏も、就活も、全部」

「わかってる。とくに伴奏は仕事みたいなもんなんだから、きっちりやるよ」

 葉子は何度か瞬いて三谷を見た。

「……なんだか、藤村ふじむらみたいなことを言うようになったわね」

「藤村先輩?」

 藤村とは、二年前まで江藤颯太の伴奏を担当していた男子生徒だ。三谷にとっては伴奏の師匠のような存在と言えた。今は他大学で作曲を勉強していて、今ではまれに劇伴などにも関わっていると聞いている。

「仕事だなんて言うから」

「たとえだよ。みたいなもん、って言ったのに」

 生徒から呆れられてしまったが、葉子はひそかに首をひねった。もしかすると、本当に似てきているのかもしれない。

「あとは、去年から話してた秋のコンクールね。受けられるとしたら今年と、就活を早めに終わらせた場合の来年よ。――コンチェルトの学内選抜は今年も受けないのよね?」

「……すみません」

 江藤先輩とみそらの伴奏をやるとなると、やはりスケジュールは厳しい。先輩はもとより、みそらも何しろあの木村門下の生徒なのだ。とくに伴奏に力を入れていなくとも学年五位以内をキープしてきたのは伊達ではない。葉子は諦めたように息をついた。

「――でしょうね。けど、譜読みと練習は続けなさいよ。対策は考えるから――まずはみそらの伴奏に専念なさい。あ、もちろんこのレッスンと颯太のことをやるのは大前提だからね」

「わかってるよ」

 注釈の多さに思わず三谷が笑ってしまうと、そこで葉子もやっと微笑んだ。そうしてゆっくりと呼吸をする。

「個人的にはね、嬉しいのよ。みっちゃんがみそらの伴奏をすることは」

 三谷の視線に、葉子はさらに微笑んだ。柔らかく、レガートの美しい声だった。

「きみらには、たくさん幸せになってもらいたいからね」

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