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 講義が終わり、解放された生徒たちが出口に流れ込んだ。今回の講義は管楽器や声楽などのいくつかの専攻が一緒になったもので、次の講義がある生徒たちは足早に移動していく。二限目が空きのコマになっているみそらは、同じ専攻の友人と話しながらゆっくりとドアに向かっていた。

「山岡」

 呼ばれて顔を振り向ける。もう声だけで誰かわかるのに、つい姿を探すのは人間のくせなのだろうか。

「あれ、三谷みたに、何してるの?」

「さっきの続き」

「さっきって……チャットの?」

 みそらが怪訝そうにしていると、友人が「先に食堂に行くね」と声をかけてきた。二人が同門で仲がいいのは周知のことだ。

 友人を笑顔で見送ってから、みそらはもう一度三谷に向きなおった。そこで気づく。あれ、なんだか視線の位置が違う気がする。みそらは自分の靴のヒールをちらりと確認して、それから言った。

「……身長伸びた?」

 三谷は何度か瞬いて、呆れたような声を出した。

「……それ、今言う?」

「今気づいたんだもの。……え、やっぱり伸びてるの?」

「先月の身体測定ではたぶん、去年より二センチ近く伸びてたっぽい」

「えー、ずるい。わたしも伸びてほしいのに……」

 身長があるほうが舞台映えするのだ。みそらの身長も高いほうではあるが、あと一、二センチはほしいとつねづね思っているところだったので素直に羨ましくなってしまった。

「ていうかそんな話をしに来たんじゃないんですが」

「……すみません」

 三谷が苦笑して言うので、みそらは素直に謝った。少しだけ壁際に移動すると、もう一度友人に向き直る。

「さっきの続きって?」

「伴奏者がまだ決まってないんだったら、俺がやるよ」

「はあ?」

 思わず大きな声が出て、みそらは両手で口を押さえた。その様子を見た三谷は軽く笑って、小さく「ほんと元気」と呟いたようだった。みそらは急に理解して、そして反省した。そうか、文面じゃわたしがどういう状態だかわからないからわざわざここまで来たんだ。

 そのことが無性に嬉しくて、ほんとに、と言いそうになる。けれど、――けれど。

「今、伴奏何人もってるっけ」

江藤えとう先輩だけだよ。林先輩も田中先輩もこないだ卒業したから」

 そうだった。みそらは大きく息を吸った。そのうち林先輩は卒業演奏会にも出ていたではないか。彼女が出演した演奏会を見に行き、五月にもなったというのにまだ二年生気分なのかと自分に呆れた。

「ちょ、ちょっとまって」

 はっとしたみそらは、慌ててスマホを取り出すと素早くチャットで連絡をした。するとすぐに着信がある。連絡を待ち構えていたのかという速さだった。

『いいよ、伴奏するもしないもみっちゃんの自由なんだし』

 あっさりとした返信に開いた口が塞がらないでいると、そんなみそらの画面を三谷が覗き込んだ。

葉子ようこ先生?」

「そう……」

 みそらが送ったのは『三谷がわたしの伴奏をするっていうんだけどだいじょうぶなの?』という文面だった。それに対する返信が先ほどのものだ。みそらはめずらしく自分が混乱しかけているのを自覚した。

 あれ? わたしこんな、こんな順調でいいのか? これってなんか、誰かに迷惑かけてない?

 みそらがスマホを持ったまま固まっていると、三谷が呆れたような声を出した。

「先生がダメだとか言うわけないじゃん。俺に伴奏を勧めた張本人なのに」

「そ、それはそうだけど……」

 いくら伴奏の担当が減ったからといっても、そもそも自分の練習もある。木村先生は以前、三年になったら外部のコンクールを受けてみようとも言っていたし、――そう、外部コンと言えば江藤先輩だ。江藤先輩こそ、もう今年で四年生だしコンクールも出るだろう。そんなことを考えていると脳内でなぜかSWOT分析の図に江藤先輩や他の人が勝手に配置されていく。S――活かすべき強みに三谷、W――克服すべき弱みに木村先生、O――市場機会に江藤先輩、T――回避すべき脅威に林先輩、といった具合だ。マーケティングと言えば、そう、それに三谷はそもそも一般企業への就職を希望しているんだし――止まらない思考回路にみそらは思った。あれ、これはわたし、相当混乱しているみたいだ――

「山岡」

 名前を呼ばれてはっとする。顔を上げると、一体どんな顔をしていたのか、自分を見て軽く三谷は笑いこぼした。

「そんなテンパるの、初めて見たんだけど」

「そりゃテンパるよ……昨日の今日なのに」

「昨日の今日で別れ話する人がそれを言うかな」

 そこを突かれると痛い。みそらは言葉に詰まって顎を引いた。いつの間にか周りから生徒はいなくなっている。どうやらこの部屋は次の時間は空きになるようだった。しんとした空気が肌を撫でると、ここが現実であることを突きつけられた気がした。さっき喉元まで出かけた言葉を、今度こそみそらはそっと、本当にそっと口にした。

「……ほんとに、お願いできるの」

「うん。言ったじゃん、二回」

「二回……」

 何を、と言いかけて、耳に蘇る声がある。あれはいつだったか――また、ああいうのやるなら、付き合うよ――そうだった、ミミを歌った学内選抜予選。そして、昨日言われたばかりの――

「諸田さんに振られたら、俺が付き合うよ」

 記憶と現実がリンクする。みそらは半ば呆然として、目の前の同級生を見上げた。

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