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 翌日、一限が始まる前にみそらは諸田もろたと会った。「講座とかに専念したいんだよね?」とみそらが切り出すと、相手は「そうなんだよ」とあっさりとうなずいた。言われるのを待ってる、という三谷みたにの言葉がみそらの思考にちらつく。

 まだ学生が少ない一限前の校舎は、陽の光はあるのにどこか閑散としている。その光を背負ってあまりにも悪びれずに、自分は一般企業への就職、それも地元企業へのものを考えている、だから早めに動きたいとまで言われると、じゃあなんだってこっちの学校に来たんだ――と、そんな言葉が喉元まで出かかった。

 しかしそれをなんとか飲み込んで、わかった、とみそらは言った。

「じゃあ、かなちゃんにはもう伴奏をお願いできない」

「……そうだね」

 自分が悪いとも、みそらが悪いとも言わない、ずるい言い方だとみそらは思った。けれど――これから目をそらしていたのは自分だったのだ。

 自分には誰かをつなぎとめるだけの魅力がなかったということから、今、目をそらすわけにはいかなかった。これからまだ二年近く、この学校での時間は残っている。

 舞台に出る前のようだ、とみそらは思った。その一歩を踏み出すのにどれほどの勇気がいることか。でも自分は望んでそこに立っていたはずだった。

「今までありがとうね」

 これまでに磨いてきた外面を総動員してそう言うと、相手の返事は待たずにみそらはきびすを返した。たぶん諸田は何も言わない。――それくらいはわかる時間を一緒に過ごしてきた。

 そのまま一限が行われる一号棟へと向かい、しばらく時間をつぶして講義に参加する。一般教養になるマーケティング概論の授業は、名前は大層なものの相変わらず緩やかな時間が流れていて、少し頭の冷えてきたみそらは窓の外を眺めた。空は日が高くなるにつれて夏の色を帯び始めている。

 SWOT分析などについては去年別の講義でも聞いたし、自分でも勉強したな、と思いながらもペンを走らせていたが、ふと思いついてみそらはスマホを取り出した。

 先生への連絡ももちろんだが、そもそも昨日背中を押してくれたのは三谷だった。彼にも報告するのが筋だ、と思いながらチャットアプリを開く。

『さっきかなちゃんに別れ話を切り出してきたよ』

 送信してから、これだけだとなんだか相手が返答に迷いそうだろうか、と考える。

『今度は泣かなかったからほめて』

 とりあえずちょっとした冗談を付け加えた。今まで何度か三谷には泣いているところに付き合わせてしまっているが、そのあたりを汲んでいただきたいところだ。

 スマホを机に置こうとすると、着信が入った。三谷からの返信だ。

『まじで?』『早いね』

 そういえばピアノ専攻は今、外国語の時間割だった。三年になってコマ数は減ったとはいえ、学校に来る頻度が変わった実感はまだあまりない。

『まじまじ。朝イチにした』

『相変わらず嫌いなものを先に食べるよね山岡は』

 嫌いなものを先に食べる――これを以前言われたのはいつだっただろうか。ちょっとだけ考えて、みそらは小さく笑いこぼした。

 そうだ、後期試験の前に、ワルツを弾いた時だ。そこでみそらは、自分が笑っていることを再認識した。

 後任の伴奏者の目星もつけずに思い切ったことをしてしまったとは今更ながら思う。けれど、胸につかえていたことがなくなった、それだけで、前進した気持ちになれるのは不思議だった。――まあ、前進どころか後退なのかもしれないが。

『早かったのはいいけど、伴奏者探しはこれからなんだよね』『とりあえず木村先生に報告するよ』

 そう、先生に報告だ。みそらはチャットアプリの宛先を先生にして、同様の報告を送る。先生はレスポンスがかならずしも早いわけではなかったが、生徒からの連絡にきちんと目を通すタイプだ。

 あとで電話でも連絡をしようと思っていると、三谷からの返信は途絶えていた。あちらも授業中なので当然だろうと思いながら、正面のモニターを見た。

 昨日は遅くまでどう言おうかなどと考えていたから少し眠い。けれど今は貴重なマーケティングの講義だ。みそらは一度息をゆっくり吸って吐くと、思考を切り替えてペンを取った。

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