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 絶望したら、歌いなさい。――木村先生からそう言われたのは三月のことだ。特待生選抜試験の本選での出来事で、みそらはこのことを誰にも言っていない。

 今日だけではなく、後期の実技試験もいい出来だったとは言い難かった。今日よりはまし、というレベルで、学年順位が八位だったと聞いた時は、自分のことながらはらわたが煮えくり返った。

 ひと学年の人数が他校に比べて多くないことを差し引いても、みそらは学年五位から落ちたことがなかった。そこには少なからず伴奏者の貢献もある、とは思っていたが――今回ばかりはそう思えなかった。伴奏が必要な楽器の難しさはそこにある。ただ独奏者ソリストがうまいだけではだめなのだ。それを支える伴奏がソリストを引き立てるような――拮抗した実力者同士でなければ、ソリストは本来の演奏ができない。これは事実だ。

 それを諸田も知らないはずがなかった。何しろ音大に在籍していて、同学年にあの三谷みたに夕季ゆうきがいる。だからこそみそらはこれまではっきりとは言わなかったのだけれど、それが仇になったとは今では理解している。春休み中、諸田は予想通りそのほとんどを実家で過ごしていたようで連絡を取りづらいのもあり、みそらも、やはり波風を立てたくないという気持ちもあった。

 とはいえ、三谷の言葉を借りるようだが、修復が可能だとは思えなかった。もともと諸田は伴奏にあまり興味を示していなかったし、それは学年が上がってからもそうだった。一緒にオペラを見たこともなければ、――そういえば合わせの練習だっていつもみそらから声をかけるばかりなのだ。

 あなたの伴奏は使えない、などと言えるくらい自分がうまかったら――特待生選抜試験での江藤先輩と三谷の演奏を思い出し、みそらは息をついた。

 あれと比べて何になるだろうと思うそばから、自分の限界のようなものもひしひしと感じる。ああいうことができない時点で、自分はしょせん、一般人止まりなのだ。

 それでも、三谷が自分を擁護したのは意外だった。わたしにだって怒りそうなのに、とみそらは思う。伴奏者を牽引してこそソリストであるはずだ。後期試験、そして今日の結果は、みそらの身から出た錆でしかない。

 三谷夕季とは長い付き合いだ。といってもこの学校に入ってから知り合ったので、長いというよりも深い、と言うほうが的確かもしれない。互いに羽田葉子というピアノ講師に師事する者として、色んな場面で励まし合ってきた戦友と言えるのではないか、とみそらは思っている。

 とくにお互いに一般企業への就職を視野に入れているということもあるし、伴奏という側面から意見をもらうことも多かった。――今回、こんなことで泣き言を言うことになるのは避けたかったのだけれど。

 自宅での練習と夕飯の片付けまで終え、湯船にお湯がたまるのを待つ間、みそらはじっとスマホを見ていた。

 ――絶望したら、歌いなさい。以前木村先生はそう言った。

 絶望。みそらは思った。この学校にいて、絶望なんて何度もしている。ここがどん底だと思うのに、さらにまたどん底が訪れる。それらから逃げるすべはなく、超えた先からまた自分は何かに試されるのだ。副科ピアノに、自分の声量に、和声のセンスに、生まれ持った声質に。

 今日の先生の様子を思い返せば、あの頃はまだ優しかったのだと痛感する。今日の先生は、はっきりとみそらの手綱のゆるさを責めていた。――そうだ、わたしはあの木村利光を怒らせたのだ。今みそらが優先すべきことは友人との微妙な友情を持続させることではなく、担当講師の信頼を取り戻すことだった。

 スマホのチャットアプリを立ち上げる。諸田の名前を見つけ、それでも指は止まった。と、ふと、今日の友人の言葉が耳に蘇る。

 振られたら付き合うって、なんか前も似たようなことを言ってた気がするけど、何だったっけ。

 思い出すと、みそらは自分の肩から少し力が抜けたのを自覚した。叱ってくれる友人がいるのは、恵まれている証拠だ。

 ――そう、少なくとも味方はいる。みそらは腹筋を使って息を短く吐き、今度こそ指を動かした。

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