第四章 花束をきみに

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 舞台袖からの景色はいつも白いイメージだ。煌々と光るライトがそう思わせるのかもしれない。その色はまるで、ここにおいでとでも言っているようでとても好きだった。――けれど、最近はそんなことを思うこともなくなったな、と山岡やまおかみそらは自分が手にしたコーヒーショップの白いカップをぼんやりと眺めていた。

 夕方の時間帯になっても、空の色は五月上旬ともなればかなり青さが残ったままで、雑踏の明るいざわめきとともに来たるべき夏を予感させた。

 すっかり行きつけになったコーヒーショップ、その外に設置されたテラス席は、駅前の通りに面している。店内は人が多く、あぶれたような形でみそらはそこにいたが、こんな天気ならば外のほうが気が晴れるというものだ。

「うわ、なにその大きさ」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、予想どおりの人物が若干おののいた様子で彼女の手にしたカップを見ていた。

三谷みたに――おつかれ。今戻ってきたの」

「おつかれ。ていうかそんなサイズ、今まで買ってたっけ?」

 よくこの店に一緒に来る三谷夕季ゆうきらしい質問だった。

「いや、ない。――サイズ間違えちゃったんだよね」

 グランデサイズと言ったつもりが、どうやら一番大きなヴェンティサイズと無意識に言っていたようだった。カウンターから渡されるときにそれに気づいたが、ここまでくると注文し直すのもおっくうで、みそらはそれをそのまま抱えていた。

「さっきから思ってたんだけど、なんかこのサイズだとエノキダケみたいに見えない?」

「どういう感想だよ」

 三谷は思わずといった様子で突っ込みを入れた。その目元は苦笑いでもあいかわらずきれいで、夕焼けに染まり始めた空気に、どこか澄んだ青い雰囲気が映えるのがこの同級生だった。

「俺も買ってこようかな」

 カバン置いてていい? と問われ、みそらはうんと気軽にうなずいた。

 みそらは声楽、三谷はピアノ。専攻は違うが、みそらは副科ピアノを、三谷は主科であるピアノを同じ講師に習っている同門の仲間だ。しかもそれが三年目ともなると本当に気安いものだ。――いや、三年目にして崩れそうなものもあるか、と思いながら妙に縦長いカップを手に流れる人を見ていると、テーブルにトールサイズのカップが置かれた。自分のものと比べると通常サイズのそれがやけに小さく見える。三谷も同じようなことを思ったらしい。

「ひとりで飲めるの、それ」

「……飽きたら残り、飲んでくれる?」

「飽きたらね」

 軽くあしらうような三谷の言い方になんとなくほっとして、みそらは小声で続けた。

「……やけ酒できないんだから、やけコーヒーくらいは許してほしいかな……」

 満足のいく出来ではなかったとしても、せめて喉に悪いことはしないでおきたい。

 そんなみそらの心の声が聞こえたのか、三谷は黙って一口、コーヒーを飲んだ。熱くないのかな、と若干猫舌気味のみそらは横目で見ながら思ったが、入学時からの友人はとくにそんな素振りは見せなかった。

「今日のは、気にしなくていいと思うけど」

「……そういうわけには」

「伴奏者側の見解だけど、諸田もろたさん、やる気ないでしょ」

 めずらしく厳しい言い方をした三谷をみそらは驚いて見つめた。――それが自分の見解と一致していればなおさらだ。

「……そう見える?」

「見えるよ。あれで山岡にリードさせるとか論外。たぶん、早めに言ったほうがいいと思う」

 今日の午後行われたのは、声楽の木村門下、つまりみそらが主科として学んでいる声楽専攻の、木村利光としみつ教授に師事する生徒が出演する学内の発表会だった。これは毎年開催されるもので、全学年の顔合わせも兼ねて全員が一曲ずつを披露する内容だ。

 新一年生にしてみれば、先輩たちの前で一曲を披露するかなり胃の痛いイベントとも言える。木村先生は非常勤という肩書であるものの、それはプロとしての活動があるからであり、それゆえに門下のレベルも学内でもかなり高いと認識されている。事実、どの生徒も昨年度からあたためていた曲をのびのびと披露していて、新一年生にはたいそう刺激になったはずだ。――ただし、自分を除いては、だけれど。

 伴奏者の諸田と、なんとなく合わないという状態は昨年度の終わり頃から見え隠れしていた。それは技術的な大きな差というよりも、モチベーションの問題のような気が、みそらはしていた。

 諸田加奈子かなことは、高校時代の講習会通いの頃に知り合った。お互い地方出身ということもあって気が合ったし、互いのレベルも当時はそう差がなかった。なんとなくの流れで入学後もよろしく、という関係ではあったが、昨年の秋頃から徐々に、ほんの少しずつ、ずれが起き始めた。――たぶんそれは、諸田が進路を考え始めたからだと思う。

 音大生がすべて、音楽関係の仕事に就くとは限らない。一般企業への就職も多いのが現状だ。とりわけクラシック音楽が斜陽産業であると言われて久しい。

 そういった背景もあり、公務員試験対策講座や一般企業への就活セミナーなどに大学側も力を入れている。諸田も教職は取らないようだったが、そういった講座などに早い時期から積極的に参加するようになった。それはまったく悪くないと、自身の進路を考えるみそらも思う。しかし――その頃からだんだんと、彼女から音楽がこぼれ落ちていっているように、みそらには見えていた。

 あの講座おもしろかったよ、みそらちゃんも行ってみたら。そう言うたびに、彼女から音がひとつずつほろほろと落ちていく。同時に、練習で合わない箇所も増えてきた。ブレスのタイミング、曲の入り、――そんなちょっとした、でも致命的なところ。

 とはいえ後期試験から春休みを挟み、そのまま年度初めの発表会にもつれこむこの時期に伴奏者と揉めるのは得策とは言えず、みそらのフラストレーションは溜まるばかりだった。

 ピアノ専攻は自分の楽器があれば成立するが、それ以外の楽器では、毎週のレッスンはもちろん、試験やコンクールなどにおいてはとくに、オーケストラの代わりとなるピアノの伴奏が必要になる。

 ピアノはオーケストラを一台で再現できる唯一の楽器と言える。そして基本的にピアノ専攻よりもその他の楽器を合わせた人数が多いため、ピアノ専攻の生徒は必然的に何人かの伴奏を掛け持ちすることが多い。そんな中で諸田が担当しているのはみそらだけだ。だからこそ負担はかけたくないと思ったし、今までもそうやってきた。

 そうして迎えた今日の発表会は、なんというか、みそらとしては本当に最低な出来だった。伴奏と合わせることばかりに気を取られ、まったく自分なりの表現が追求できていない。それは今年度に入ってから木村先生に指摘されていた点ではあったが、今日の演奏後の先生の目は、なんというか、マジだった。先生のあんな目は見たことがない。

 木村先生はいつもはイタリア人紳士なノリで、あまり怒りや悲しみなどのマイナスの感情を表に出さない。それなのにあの、眠れる獅子を起こしたような――唸る、獰猛な猛獣のプロの目。

 そして極めつけは、演奏後の諸田の「よかったよね、さっきはちゃんと合って」というコメントで――ああ、もうだめなんだなと、みそらははっきり思ったのだ。最後通告を受けてうろたえるには、自分でも疲弊しきっていたのだと思う。

 三谷が発表会を見に来ていたのは、かつて担当していた林先輩が木村門下であり、昨年まで自分も出演していたからだ。つい先ごろ卒業した先輩とはみそらも昨年はなんだかんだとトラブル――とは呼べないほどのもの――もあったとはいえ、あれほど安定したソプラノの技量をもつ先輩がいなくなると、自分の学年が上がったことを突きつけられた気がした。

 だからこそ余計に、という気も繰り返し押し寄せてくる。けれど、ここで突き放すのが本当に正解なのか、みそらはまだ判断ができずにいた。

「心苦しいよね、今までいっしょにやっといて」

「違う。――伴奏に同情は要らないよ。学生だって、そのつもりでやってる」

 やたらと背の高いカップを抱えてみそらは小さく呟いたけれど、三谷の返事はにべもなかった。――何度も言うようだが、本当にめずらしいことに。

「あれは待ってると思う。山岡から『伴奏者変える』って言ってくれるの」

 ずるいと思うけど、と三谷が小さく付け足す。今までこの件に関して詳しく話したことはなかったが、さすがに友人歴が長いと色々バレるものだ。それに、伴奏に関して彼は一家言がある――なにしろ先日、あの江藤先輩の伴奏を務めて、見事先輩の特待生合格に貢献しているのだ。そうでなくとも、彼の独奏・伴奏いずれもみそらは信頼に足ると思っている。

 風が頬を撫でると、髪がさらわれるのを感じる。いいにおいだな、と久しぶりに思った。五月の風は、こんなにもきもちいい。

「諸田さんに振られたら、俺が付き合うよ」

 その言い方がなんとなくおかしくて、ソイラテを口に含んだばかりのみそらは軽くむせた。そしてそれが引き金になって、何度も咳き込んでしまう。

「あーあ、もう」

 背中を軽くさすられながら、咳で誘発された涙がにじむのを感じた。ハンカチで口元を押さえながら咳をおさめる。けれど、涙はなぜか止まらなかった。顔を覆ったままハンカチで目元を押さえる。

 この数ヶ月、なにかをたくさん落っことしてきた気がしてならなかった。それを拾う間もなく学年は三年になっていて、この学校にいられる時間もあと二年を切っていた。そんな中で――一体、わたしの中から何がなくなったんだろう。

 みそらの背中をさすっていた手が、ゆっくりと止まった。

「……おつかれ」

 数秒の時間を置いて聞こえてきた言葉と、背中に刻まれた二回のリズム。狂っていた自分のリズムがほんの少しだけ調律された気がして、みそらはしばらくその余韻に身をゆだねていた。

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