10

 その後も数曲を聴いたけれど、いずれも江藤えとう先輩に届くような音楽性や技術は感じ取れなかった。前からこうだっただろうか、とみそらは聴きながら何度か首をひねった。とくに高三の時に聴いたものは、あんなにも――あんなにもきらきらしいものだっただろうか。

 その正体を掴みたくて数人を聴いたようなところもある。打楽器まで聴き終わったところで、これじゃないという意識ばかりが積み重なってみそらはホールをあとにした。

 ホワイエには人が多く、まれにトロンボーンが、という声も聞こえた。みそらの中では江藤颯太そうたがついに四年連続の特待生になるのでは、ということは確信的ではあったけれど、それはやはり周囲でも同様のようだった。ホールで見たきらきらしいものが、まだこのホワイエにも残っているようだった。それはほとんどみんなの期待の具現のように思えた。

 空いていた長椅子になんとなく腰掛ける。ホワイエと外はガラスで仕切られていて、中からは外の景色がよく見えた。春の空は夕暮れに追いやられ、茜に染まり始めた構内で羽田はねだ葉子ようこと江藤颯太が話しているのが見えた。はっきりと表情が見えるわけではないが、穏やかに、でも話が弾んでいる雰囲気は伝わってくる。何を話しているのだろうと思いながら、みそらはそれをぼんやりと見ていた。

 先輩が何かを言うと、葉子は首を傾げたようだった。それから二人の間にあるカバン――おそらく先輩の着替えが入っている――を葉子が手渡す。ゆっくりとそれは先輩の手に渡る。二人の輪郭がオレンジ色に輝いているように見えた。そこにもたしかにあの舞台上にあった祝福があるような気がして、みそらはなんだかそれを切ないと思った。切ないとはでも、どういうことだろう。

 葉子が手を振って先輩を見送る。葉子は帰っていく江藤颯太の後ろ姿を見ていたようだったが、しばらくして振り返ると、ホールに向かって――みそらから見ると、自分に向かって――歩いてきた。

 葉子の髪が風に揺れて、夕焼けの色を弾く。絹糸で織られた美しい織物が風にはためいている様子を連想しながらみそらがその姿を追っていると、ホールの扉を開ける頃になって葉子が気づいた。みそらに向かって小さく手を振り、口角が上がったのが遠目にも見て取れた。

 扉を抜け、葉子がホワイエを軽やかに歩いてくる。その表情と足取りだけで、みそらは今度こそ本当に、江藤颯太の特待生合格を確信した。

「休憩中?」

 みそらの隣にはまだ誰も座っていない。そこに腰を下ろしながら言った葉子の声が、柔らかく耳をくすぐる。なんだかいつもより淡く、ほのかに色づいて聞こえる声だった。

「頭冷やしてた。一気に聴きすぎて頭パンパンになったみたい」

 みそらの言葉に葉子はふふっと笑うと、わかる、と呟きながらみそらの隣に腰をおろした。

「みんな、これから一年の運命がかかってるから、……そういう音の熱にあてられたんだろうね」

「そうかも」

 いずれも素晴らしいエネルギーだった。音に込められたエネルギーが自分の中に渦巻いているのがわかる。

「颯太の曲、わたしも昔、伴奏したことがあったの」

 そんなことを以前先輩が言っていたのを思い出す。みそらはただうなずいた。

「留学してた時にね、規定時間に合わないからって変更になって、結局その時はやり切れなかった。だから今回余計に熱が入っちゃって……みっちゃんは大変だったかもしれないなあ」

 葉子の声は苦笑の色を含むものの、それでもどこか弾んでいてみそらの胸の奥をとんとんと叩いていく。

「けど、あの頃やれなかったことを、みっちゃんを通して何か実現できた気がした。――先生をやってる醍醐味って、これかもしれないわね」

 醍醐味。みそらは考えた。醍醐味と言うならば、あれこそまさに誰かとつくる音楽の醍醐味をそのまま世界に取り出したようではなかったか。

「――ソリストと合わせたものを初めて聴いたけど、あんな曲だったんだね」

 みそらが思いついたことを言うと、葉子はうなずいた。

「そうね、たしかにみそらは、ずっとみっちゃんだけの曲を聴いてたもんね」

「うん。かっこよかったな。三谷みたにの音がちゃんと先輩の音と溶け合ってて、そう――」

 一人じゃない、と言おうとして、言葉が出てこなかった。こちらを見ていた葉子が、少し驚いたように動きを止めた。長い髪、きれいな瞳。葉子が纏うブラウンの色は上品で、みそらは同性ながら見惚れる自分に気づいた。

「みそら」

 その葉子が、ピアノ奏者なのに細い指をそっと伸ばす。しかしその手はやはりピアノ奏者らしく分厚く筋肉がついていて、みそらの左頬をそっとすくい上げるように包み込んだ。

「ごめん、考えなしだったわ、わたし」

 なんで葉子の手のひらが濡れているんだろう、とみそらは思ったけれど、――そこでやっと自分から涙が出ていることに気づいた。

 嗚咽もなく胸の痛みもなくそれは溢れていて、まるで瞳からせきを奪っただけのようだった。なんの不自由もなく頬を伝って顎からぽたりと落ちるそれを、みそらは他人事のように感じていた。

「なんだこれ……」

 デニム地のパンツの太ももに黒くしみができるのを、みそらはまた他人事のように見下ろした。瞬くたびにぽたぽたと軽やかに雫が降って、服をまだらにしていく。

「葉子ちゃん、ちがうの、わたしは感動したんだよ。藤村先輩のあとを継いでちゃんと今日を成功させた三谷とか、先輩の演奏自体に――」

 自分の思考回路が紡いだ言葉に、みそらは言葉を失った。

 ――本当は後期試験の結果も良くなかった。散々だったとまでは言わないが、合わせ不足は完全に露呈していて、そんな自分にも嫌気が差していた。本当ならわたしの歌はこんなじゃないのにとテンプレートな言葉ばかりが浮かんで、でもそれはやっぱり自分のせいだった。諸田をきちんと伴奏へ導けない自分のせいだった。そのできなかったものがそのまま目の前にあって、どうやったら羨まないでいられるだろう。

 恋をしなさい、と言われた自分と、それからずっと好きとすぐに言える先輩との違いを目の前に差し出されたような気がしてならなかった。

 ――恋とは、先輩が葉子に抱いている感情とは、こんなにも難しいものだったろうか。みそらはついに顔を伏せた。

「ごめんね葉子ちゃん、いい日のはずだったのに」

 小さく言った言葉に、葉子が首を横に振ったようだった。それはまだ左頬に添えられた手からわかって、でもみそらはその手を自分の左手でそっと外した。

 熱は持っていない。顔に熱がないなら、目も鼻もきっと赤くなっていない。涙だけふけばいつもの顔のはずだ。何度も泣いてきたからそういうことだけはわかる。

「ありがとう葉子ちゃん。大丈夫だから」

 まったくオリジナリティのない言葉を言いながら、みそらは葉子の手を彼女の膝の上に戻した。それを葉子はまだ心配そうに見つめたが、言葉では深追いしないでくれた。――これくらいのことは、葉子だって経験してきているはずなのだ。

「――次もまた、ワルツみたいなのやりたいな」

「ワルツ?」

 話を変えたみそらに、葉子がそっと微笑んだ。ブラウンの色味が、ホワイエのあたたかな色味に映える。

「そうね。いくつか曲はわたしも考えとくから、みそらも候補があったら言って。ワルツ以外でもいいわね」

「うん」

 みそらが返事をしたところで、ホールの扉が開いた。どっと弛緩した空気が流れてきて、審査が終わったのだとわかった。出てきた講師陣のうち一人が葉子を見つけ、声をかける。

「じゃあ、またね葉子ちゃん」

 葉子がそれに視線をやっているうちに、みそらはコートとカバンを掴んで立ち上がった。葉子は何か言いたげに口を開いたが、それでも微笑んで見送ってくれた。――そうしてくれた葉子のことを心から好きだと思った。

 コートを着て外に出ると、日がほとんど落ちていた。風がコートの隙間を容赦なく攻めてくる。きつく前を合わせると、スマホがなぜか気になった。ホールにいたから音は消していたはずなのに、どうしてか呼ばれた気がした。みそらが肩から掛けていた小さなカバンを開けると、ちょうどスマホの画面が着信を報せて輝いていた。

 手に取って、応答にスライドして、耳に当てる。カバンの中にいたスマホはまだ冷たさに染まっていない。

「――はい」

「ああ、みそらかい」

 耳にバリトンの音が響く。木村先生だった。

「どうだった? 今日の試験は」

「どうだったも何も、先生、審査員席にいたでしょうに……」

 呆れて言うと、ふと濡れていたはずの頬が冷気で冷やされているのがわかった。みそらは右手で頬をなぞる。涙が伝ったであろう場所が、化粧が落ちて少しざらざらとしていた。

 現役のバリトン歌手として活躍する木村先生は、本日の特待生試験の審査員でもあった。彼もまた、みそらが聴いたものを聴いて、さらにはその点数をつけていたのだ。

「そうだね、今年も粒ぞろいだった。特待生試験は残酷な試験ではあるが、それでも誰かの生きようとする価値を見出す素晴らしい場所だよ」

 先生らしい言い方に、思わず小さく苦笑がもれた。勝者の言い分だな、とみそらは思うが、まさに勝者の言い分とは音楽の世界における正義なのだ。

「みそら」

 先生の声は低く、柔らかく、そしてしなやかで恐ろしかった。獅子がまどろんでいるような、そんなゆっくりとした呼吸を感じる。

「絶望したら、歌いなさい」

 脳内で、言葉が像を結ぶ。言葉が質量をもつ実体となって、みそらの中に生まれる。

 ああ、これが言葉を歌にする人たちだ。そう思うと背筋が震えた。空を見上げると、あの時と同じように茜と藍に沈みかけていた。遠く光るのは金星だろうか。

「僕らにはまだ、歌があるんだ」

 喉の奥が鳴る。今度こそ涙があふれて止まらなくなるのがわかった。上がる息を必死でこらえ、嗚咽を飲み込む。風が瞳と頬を容赦なく冷やしていくのを感じながら、みそらは言われた言葉を胸の中で繰り返した。

 先生らしい励まし方だと思った。優しい言葉ではなかった。みそらの傷を見過ごしてもくれなかった。それでいて、傷を傷のままにすることも許してくれなかった。

 みそらは息を吸った。そして腹筋でそれを一度止める。自分が出す音をもう一度イメージして、それから息に言葉を載せた。

「――はい、先生」

 僕らにはまだ、歌がある。――みそらに残された時間は、あと、二年だ。



[You're not alone 了]

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