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特待生選抜試験本選の日は、春らしい乳白色の空が美しく映える陽気となった。試験は公開形式で、学内で一番大きなホールで行われる。通常の後期試験を終えて自由な時間は増えているはずなのに、公開講座と並ぶほどにホールの座席は埋まっている。――これが本選だ、とみそらはホール後方の重い扉を開けて見えた景色に思った。
物見高い生徒たちの妙な熱気が会場に充満しているような気がして、毎度のことながらみそらは少し肌に違和感を覚えた。人の技術を品定めするような若干の悪意――ピアノ・管楽器・弦楽器・打楽器・声楽。特待生選抜試験とは実質、それぞれの専攻の学年一位を決める試験と言えた。
一次試験ではそれぞれに三人から五人ほどの受験者がいたはずだが、この二次試験に進めるのはほぼ二人ずつ。それぞれの分野における頂上決戦のようなていを成しているがこれもまた毎年のことだった。
金管楽器では、ここ数年――つまり
先に出てきたのはトランペットだった。江藤颯太とは管楽器三年の双璧と呼ばれ、正確無比な音程は管楽器の花形であるトランペットの何よりの武器だ。
甘く、まろやかな音が空間を震わせる。曲は知らないが、技術の高さ、叙情性の豊かさはみそらにもわかった。弦楽器にはなかった響きがホールを満たし、トランペット特有の音が空気を震わせる。ひれ伏したくなるような高音は、そのまま楽器のプライドを表現しているようだった。持ち時間の十分ほどがあっという間に過ぎ、舞台上の奏者は袖に再び戻っていった。文句なく最高の演奏だったと思えた。――けれど。
みそらは思った。自覚もしている。そして会場が待っている。次の奏者を。あの長く輝くスライドが無限に音を作っていく楽器を――
舞台上に現れた江藤颯太をひと目見て、以前葉子が言っていたことをみそらは痛感した。――顔つきだけでその日の生徒のコンディションがわかるようになるものだとは、このことか。
舞台上に出てきた江藤颯太は非常にニュートラルだった。気負いがないようでいて、誰にもつけ入る隙を与えない――舞台上で戦うこと自体が自然の摂理であるかのようだ。まさに研ぎ澄まされた刃といった様子で、体が素直にぞっとする。
前の奏者が終わり瞬間的に緩んでいた空気が再度ぴりりと引き締まったのがわかる。後ろのピアノの側に
みそらはもう一度、無意識に背筋を伸ばした。歌う時のように胸が開く。胸骨が共鳴したがっているのがわかる。細胞がざわつく。ああ、すでに空気がちがう――
そっと楽器を構えるしぐさが妙に色めいている。とくに管楽器は奏者の息を吹き込むものだ。まるで恋人に顔を寄せるようで、自分の楽器を大事にしている人にしか出せない色だな、とみそらは毎度のことながら感心した。
三谷が先輩の背中を見る。ここから目を合わすことなく、体から伝わるすべてのしぐさを読み取って音を合わせなければならない。伴奏者から、客席から、すべての視線を一身に受けて彼はほんの数秒、空気と自分を調律する。
楽器に息を吹き込む音すら聞こえるような静寂――そして、第一音。
ニーノ・ロータ作曲、トロンボーン協奏曲、ハ長調。
映画「ゴッドファーザー」などの映画音楽から、近年ではフィギュアスケートでよく使用される『道』『ロミオとジュリエット』などの近代曲を数多く作ったイタリア人作曲家のコンチェルト。これが江藤颯太の勝負曲だ。
音の跳躍から始まる第一楽章は一聴するだけではハ長調とはわからない。これは全楽章に言えることで、そのためオーケストラ部分を担当する伴奏にも相当な技量が求められる。――そう思って、みそらは愕然とした。
江藤先輩の音だ。これが、江藤先輩の音だ。
ついぞ伴奏のレッスンでは聴かなかった音が、今、ここにある。
不思議だった。あれほどインストにしか聴こえなかったピアノ伴奏が今、ソリストの音を得て生き生きと色づいた。それはまるでモノクロの写真に一滴だけ水を垂らすと、そこから同心円状に色が広がっていくさまを思わせた。
伏せられていた三谷夕季の色を、ソリストの音が鮮やかに呼び覚ましていく。なのに、その主役は、絶対的にトロンボーンだった。
これが、江藤颯太の音。そして、それを支える伴奏。
近現代らしい一筋縄ではいかない和声をトロンボーン、ピアノ双方が奏でる。リズムのかけあいが軽く跳ね、繊細な表現が求められる旋律。トロンボーンにしかないスライドの動きがライトの光を弾く。
ともすると重苦しくなる第二楽章。最初は伴奏しかなく、世界観の構築はピアノに委ねられていると言っても過言ではない。思わずみそらは息を詰めた。やっぱり、と思う。ねえ三谷、やっぱりそれ、レッスン室で聴いたのとぜんぜんちがうよ。わたしはその音を、――ぜんぜん知らない。
そうして伴奏にそっと入ってきた主旋律はどこか甘やかだった。第一楽章であれほど震わせたベルが今度はふくよかなふくらみをもった旋律を奏でる。上昇するメロディ、緊張感、そして解決を示す音。高音でゆるやかにメロディを紡ぐ間、ピアノはワルツのように踊るリズムを刻む。胸がどんどんざわめきはじめる――共鳴しはじめる。
他の誰でもない、自分だけにある音楽を演奏し、伝え、楽しいと、生きていると、そう、まるで誇るような音。
第二楽章の山場である場所――音の上昇と緊張感、二度目の頂点こそ、カタルシス――
第三楽章はまた一転して明るく軽やか。オーケストラを伴奏に主役が跳ね回る。きかん気の強い少年を思わせる明るさと跳躍。伸びやかな高音。かと思えばスライドを一切させずに倍音だけでアルペジオを奏でるカデンツのなんと美しいことだろう。和声の移動が音の方向を決定づける、そのことをよく理解しているからこそ単なる音の並びがこんなにも胸をさざめかせる。
ベルが上向きに輝くファンファーレを経て伴奏がいっそう華やかになると、まるで古典のような重厚さと愛らしさが同居する。縦横無尽に駆け巡るトロンボーンの主旋律を聴きながら――一人じゃない――みそらの体を貫いたのはその言葉だった。
そうだ、先輩は一人じゃない。三谷がいるし、
一人じゃないんだ。音を鳴らすとき、その板の上にいる自分は一人きりだと思っているとしても、その音楽が真摯であればあるほど誰かの胸に届く――今のみそらのように。
胸骨は彼の音に導かれ、細かく細かく震えて体じゅうの細胞すべてに音を届ける。呼吸がどんどん楽になると同時に、そこに間違いなく三谷の音があることを知って、今、この音に殺されても本望だとさえ思う。
メロディはどこまでも甘く晴れやか。そしてこの楽器特有の中低音の色気はなめらかで、みそらのおなかの奥をしびれさせる。みそらは知らず、ホールの高い天井を見上げた。
ああ、いる、あのきらきらした光が。
それをうまく言い表すことはできないが、――それは絶対に「正解の音」のときにしか見えない。きらきらとした雪の結晶のような光。滅多に出会えない、けれど、そういえば最近、三谷と行ったコンサートで見た光と同じものに、耳で音を追いながらみそらはそっと息を詰めた。
この音楽は、舞台の上の人のものだ。この舞台も、この伴奏も、この客席の歓喜も、――この世界すべてが彼らのものだ。
この舞台は、彼らを祝福するためにある。
圧倒的に孤独な音楽の世界で、ほんのわずか、人生で何度かだけ出会える瞬間。わたしがわかるなら、演奏をしている二人にも、そしてここにいる審査員を含むすべての人にもわかるはずだ。――みんな、それに恋をしてここにいるのだから。
高音が伸びやかに響き、そして心臓のど真ん中を射るようなハ長調の主音を迎える。残響を肌に感じながら音は消えた。
ほのかに熱くなった指を握り込みながら舞台を見ると、先輩と三谷が揃ってお辞儀をするところだった。スライドがライトを反射した様子がまるで太陽の光を集めたようにも見える。先輩は三谷にひとつうなずいたようだった。始まる前と同じように気負いのないようすだったけれど、そこにほのかな笑みを認めて、みそらはもう一度天を仰いだ。
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