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 今頃は先輩が家に来て練習をしているのだろうか、とぼんやり考えながらみそらはかすかに揺れるケトルを眺めていた。一人暮らしの部屋にありがちなキッチン兼廊下はまだまだ寒くて、いつもならすぐに思える湯沸かしもなんとなく長く感じられる。

 カチン、と軽い音がしてケトルの揺れは止まった。それを手にしてマグカップの上にかざす。先にティーバッグをセットしておいたカップの中に、柔らかい音と湯気を立ててお湯がこぼれていく。

 一人じゃない、という言葉は、心に残った。みそらがやっている声楽専攻は、一人で舞台に立つことはない。高校の合唱部はそこそこ大人数だったし、声楽を選んでからもそうだ。

 部屋に戻るとスマホが着信を報せていた。画面を見ると木村先生で、みそらはカップをテーブルに置いてスマホを手に取った。

「はい」

「ああ、みそらかい?」

 昼ぶりに聞く先生の声は相変わらず柔らかく、そしてふくよかだった。先生のおおらかさがそのまま音になっているようだ。

「今日話していた公開レッスンだけど、日程がわかったよ」

「え、早いですね」

「ちょうど彼とやり取りしていてね」

 そういえば公開レッスンの講師と先生は友人関係だった、と思い出す。イヤホンにして出ればよかったな、と思いながらみそらはカバンから薄いスケジュール帳を取り出した。いつもはスマホのアプリで管理しているので、これはおまけみたいなものだ。

 日程をメモし、かなちゃんにも打診をしないとなあ、と少し憂鬱になる。諸田はあまりこういうのには出たがらない。

「曲は、みそらもいくつかピックアップしてくれないか?」

「わかりました」

 直近でやった曲のうち、無難なのはベッリーニかレスピーギか。そんなことを考えていると、ふと思い当たることがあった。

「先生――」

 言いかけて、ちょっと踏み込んだ質問過ぎるだろうか、と思いとどまる。しかし「何だい?」と促され、みそらは口を開いた。言った言葉は取り消せない――音楽と同じだ。

「先生って、どうして奥様と結婚したんですか?」

 先生は電話口でふむ、と小さく唸ったようだった。

「それはどの点を解説すればいいかな? 彼女の素晴らしい点についてか、それとも、結婚するきっかけとなったことがらについてか」

「――後者でお願いします」

 先生と奥さんは、先生より十歳年下、つまり葉子ようこよりいくつか年上という年の差夫婦だ。もとはそれこそ葉子と同じで、彼らの学校の先輩だということは聞いている。

「そうだね、――演奏することをやめてほしくなかったから、かな」

「……演奏、ですか」

 みそらが気が抜けたような声を出すと、先生は電話口で快活に笑った。

「済まない。どう説明したものか迷ってね。――彼女は卒業したらきみと同じように一般就職をしようかと考えていたらしい。けれど、僕がやめてほしくなかったんだ。そのためにはどうしたらいいかを考えたとき、自分が折よく独り身で、プロの歌手だと気づいたんだ。僕が歌う、そのときに彼女が必要であるならば、辞める必要はないだろう?」

 先生の声はいつものように滔々と流れていく。

「僕が聴いていたかったんだよ。僕が彼女の音を聴いていたかった。だからこれは僕のエゴなんだよ。それでも彼女はそのエゴに乗ってくれたんだ」

「……それができるのは、先生だからじゃないんでしょうか」

 みそらは素直な感想を言った。マグカップに触れると、まだそこは十分に熱い。

「そうかもしれないね。それは認めよう」

 うなずく先生の姿が見えるようだった。レッスン室、ピアノのとなりで長い脚を組んで、ゆったりと微笑む木村先生の姿。まるで劇場にいるかのような姿。

「けれど、根本は誰だって同じなんだよ。聴いていたい、そこにいてほしい。そのために自分が何を差し出せるか。――奏者であるなら、どのような演奏、つまり人を引き止める力をもつだけの演奏を提示できるか。それは誰であっても同じはずで、僕たちはそれを勉強しているんじゃなかったかな」

 みそら、と呼ぶ先生の声が、また甘く胸に落ちていく。

「僕らが一生を捧げる恋は、自分の中にある音楽とつながっている。僕らは音楽をやっている以上、恋をするのはいつだって音楽だ。――きみならもう、わかるだろう?」

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