7
今日の空も春を思い起こさせる色をしていた。かすかに淡く、白みがかったやわらかな色だ。そこに夕焼けの色が重なって、これから来る寒い夜を予感させる。
「今日みたいなレッスン、もう何回かやったことあったの?」
「まあ、年末からちょっとずつ」
真面目だなあ、と言おうとして、みそらはやめた。これはそういう単純な問題ではない。
「気になってたんだけど、三谷ってなんでそんな伴奏好きなの?」
「好き?」
聞き返されて、みそらは頬を撫でていく風に思わず肩をすくめた。
「だって、かなちゃんだとそんなことしないと思うもん。わたしが大きなものを受けないのもあるだろうけど」
「諸田さんはわかんないけど……」
歩きながら三谷は少し考えたようだった。
「一人じゃないからかな」
みそらは瞬いた。自分でも面白いくらいにまつげが踊っているのがわかる。
「一人?」
「そう。なんていうか……」
三谷が言葉を探す間、横の道を通過する車の音、遠くにいる同じ学校の学生の声、どこか遠くのほうでこだまする子どもの声、友人のカバンの中が揺れる音、鳥の鳴き声――様々な音が聞こえた。それらはすべて日常のものであり、先ほどのような圧は持たない。あれは引き寄せたものだったのだとみそらがなんとなく納得していると、三谷が口を開いた。
「ピアノって、ずっと一人だから。練習もそうだし、本番もそう。それが寂しいとかじゃないんだけど、ずっと一人だとなんかいきづまるところもあって」
いきづまる、が、行き詰まるなのか息詰まるなのか、どちらなのかはわからなかった。けれどみそらは続く言葉を待った。
「そういう時に、伴奏で誰かと一緒に曲を作ると、一人じゃないんだなって思う。曲は一人で作ってるんじゃないって思えるし、それにだいぶ救われてる気もしてる」
二人は歩みを止めることはなかった。いつもの道を揃って家に向かって歩いていく。その中で、みそらはじっと相手を見つめた。
「……そんなこと思ってたの?」
「まあ、うん」
目を合わさずに三谷は答えた。まだ白い息が、彼の頬を撫でながら流れていく。
「ピアノ科くらいしか思わないかもしれないし、俺もこんなこと考え始めたのはここに入ってから」
「……伴奏始めてから?」
「というか、葉子先生に習い始めたり、……
懐かしい名前だ、と思いながらみそらはジャケットの前をきつく体に寄せた。夕暮れになって風は冷たさを増した。春はすぐそこのようで、まだ冬の牙が彼らの背中を追ってくる。
「今回のレッスン、山岡のおかげなんだよ」
「え?」
突然言われて、みそらの思考回路に疑問符が浮かんだ。一瞬ののちに、今日のレッスンのことだと理解する。けれど、どちらにしろそれが自分のおかげだと言われる理由がわからなかった。みそらの疑問を感じ取ったのか、三谷は続けた。
「ワルツとかショパンとかバッハとか、よく俺に弾いてって言うじゃん。あれって、ピアノ科同士だとあんまりなくて」
「そうなの?」
「うん。たいてい音源があるから、それを探すのが普通じゃないかな。誰かの練習時間を削ってまでなにかを頼むってのはあんまりなくて」
「そ、それは申し訳ない」
「いや、今言ってるのはそれじゃなくて」
と、三谷は声に笑みをにじませた。
「効率的だってこともあるんだ。練習時間は長いし、曲数も多い。だから先生以外の人を頼ることを忘れてるんじゃないかな。ピアノ科って、一人でいることに慣れてるんだと思う」
一人。みそらの中に色んなイメージが浮かんだ。練習室の広い部屋にあるグランドピアノ。レッスン室にあるグランドピアノ。舞台上にあるグランドピアノ。
「山岡は、そういうのを飛び越えるって、葉子先生とも話してたんだよ。だから思いついた」
声がさらに情景を連れてくる。あれはなんだっけ。三谷が一人でいるところ。わたしはそれを知っている――低いところで鳴る、ゆらめきのような音。肌の下に触れられて熱を帯びる頬と、自分の呼吸――ああ、そうか。
「たぶん、葉子先生ならレッスンを増やそうって言ってくれたと思う。先生だって
そこで一度、三谷は言葉を切った。――そう、思い出した。これは、ドビュッシーだ。はじめて三谷のソロを聴いた時の。
あれは孤独ではなかったと思う。人の温度を知っている人の音だったと今でも思う。けれどたしかに、孤独であることを知っている人の音であったように思う。――だからこそ、あんなにも肌の下がざわついた。
「山岡がそうしてるのを知ってたからだよ。だから、思いついて、相談しようと思えたのは山岡のおかげってこと」
いつの間にか坂を下りきっていた。駅前の喧騒が体の周りに響いているけれど、不思議とみそらの鼓膜を揺らすことはなかった。自分の中にある音を聴いているような心地だった。何を言うべきか適切な言葉が見つからなくて、ただ言葉のかけらが体の中で共鳴しているようだった。みそらが何も言えないままに友人を見上げていると、最後の太陽が彼の頬を照らした。
「ありがとう、助かった」
――何もしていない、と返すのは簡単な気がした。でもそう言って三谷の言葉を否定はしたくなかった。そうじゃなくて、――わたしは、なんて言いたいんだろう。
わからないままにみそらは軽く首を横に振った。
「まだ終わってないよ」
「うん」
みそらの言葉を、特待生試験、レッスン、それともこの学生生活、どれで受け止めたのかはわからなかった。けれど、――まだ終わってない――それを三谷が否定しなかったことがなんだか無性に嬉しくて、みそらは知らずほっとして微笑んだ。目を細めると、視界の隅が藍と茜に滲んだ。
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