第二章 冥色を抱く

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 レッスン室は湿度も温度も快適だ。楽器、とりわけそのほとんどが木でできているピアノは湿気の影響を受けやすい。鬼門である梅雨と夏を超えて、季節は秋になった。外を歩いていても汗だくになることはほとんどなくなったけれど、レッスン室の空調は、きちんと楽器のために働いている。

 レッスン室の中心にゆったりと座っているようなピアノを見るたびに、三谷みたに夕季ゆうきはそんなことを思っている。自分たちの中心にいるのは、いつもこの楽器だ。その姿は大きな動物がくつろいでいる様子を連想させた。

「先生、夏休み前に言ってたコンチェルトのことなんだけど」

 彼らの学校では、秋にふたつの学内選抜試験がある。ひとつはソロ楽器でのもので、もうひとつが学内オーケストラとの共演を目指す協奏曲(コンチェルト)のものだ。前者は十月末に開催される一方、オーケストラとの共演になる後者は十一月末に行われる。もちろんこちらはピアノ専攻の生徒しか受験できない。

 呼びかけられた羽田はねだ葉子ようこは、手帳から顔を上げた。長い髪が揺れて、黒い楽器をかすかに撫でる。それを見て少しだけ息を整えて、それから三谷は続けた。

「――今回は伴奏を優先したいので、受けません」

「うん、わかった」

 即答だった。明るい声音はいつもの葉子の音で、どう言ったらいいものかと考えていただけに、三谷はちょっと拍子抜けした。

「……やけにあっさり言ったね、先生」

「そりゃあ、断る理由がわかるもの」

 レッスン室にある楽器の椅子は、機能性を考えて高さ調節がしやすいものを選んである。そこに腰掛けた生徒を隣に立って見つめて、葉子はちょっとだけ肩をすくめた。

颯太そうたと林さんが学内選抜を受けるんでしょう? 伴奏はわたしが勧めたことだしね」

 三谷の担当講師である葉子は、大学で講師を勤める傍ら、友人たちとの演奏活動なども定期的に行っている。自身が舞台に立つことをやめる講師が多い中、演奏者側の意識を持っているということは信頼するに値する要素のひとつだ、と三谷は考えている。

 その葉子から夏休みに入る前に、受けてみてはどうかと勧められたのが、コンチェルトの学内選抜試験だった。

 葉子はあまり、学内・学外を問わず、コンクールや選抜演奏会などに躍起になるタイプではなかった。それはまだ彼女が若手だからということもあるかもしれないし、三谷が進学校出身だということもあるかもしれない。

 しかしその中にあって、葉子から明確に「これを受けてみては」と言われたのがこの学内選抜だった。コンチェルト(協奏曲)とは、オーケストラと「協奏」するものだ。全三楽章で三十分以上という曲も多く、比例して楽曲分析の時間もより必要になる。自身も協奏曲には興味があったし、何度も練習時間などを計算したけれど、やっぱりどう考えてもリソースが足りない。機会を逃したとは思うが、実際のところ担当しているものを考えると難しい。

 ――と、何度も何度も考えたことを、言ってからもう一度考えてしまっている自分に気づいて、三谷は意識して葉子を見た。しかし彼女は愛弟子がそんなことを考えているとは思っていないのか、首を傾げて何やら思案しているようだった。

「とはいえ、なにか対策は考えたいのよね……」

 そう呟きながらグランドピアノの横という定位置に立つ。これはいつもの「はじめよう」の合図だ。三谷は譜面台に並べておいた楽譜のうち、紺とも藍色とも灰色ともつかない微妙な色の楽譜を開いた。

 イギリス組曲、第三番、ト短調。

 作曲者であるバッハの時代と現代では、そもそも楽器が違う。現代のような打弦ではなく、「ひっかいて」音を出すのが当時の鍵盤楽器・クラヴィーアで、音域も現在のものよりとても狭い。そんなに低い音ではなくともじつは当時の最低音だったりするので、そのつもりで弾かないといけない。もちろんダンパーペダルで残響を残す、なんてこともできなかったのだけれど、――現代のピアノ・フォルテとバッハ曲の親和性は高いのではないか、と三谷は考えている。

 バッハの魅力はその細やかな音がかけ合わさって生み出される大伽藍のような圧倒的な音楽だ。

 緻密に設計され、人の手でひとつひとつ積み上げ、見上げるような巨大な建築物が生まれるような景色。これこそバッハ特有のものであり、細やかな曲想はそのステンドグラス越しに神と対話するようだ。実際に声部や和音によって神や人々などの解釈もできるようで、西洋音楽史がいかにキリスト教に寄り添って歩んできたものかを実感する。

 バッハは細やかで繊細だ。けれど絶対的に力強い。この大伽藍のように積み上げられる音を再現するのに、ピアノ・フォルテという近代に誕生した楽器がふさわしいなんて、当時バッハは想像もしなかったのではないだろうか。曲にもよるけれど、日本製のグランドピアノから生まれるブリリアントな音は、バッハの和声をはっとするほど美しくする。

 これまでの七曲がたった一音の主音――ソの音に集約されて終わる。

 その残響が消えるころ、葉子が「みっちゃん」と呼んだ。適宜譜めくりをしながら思いつくところを鉛筆で書き込んでいた彼女は、けれどイギリス組曲とはまったく関係のない曲名を口にした。

「『動物の謝肉祭』、やろうか。連弾で」

 これはピアノ専攻のくせなのかもしれない、と思う。目の前の曲を冷静に分析しながら、べつの思考回路が同時進行で動いていく。右手・左手、両足、耳、体、脳とすべてを同時に使い分けながら、それらを統率する思考回路をもつのがピアノだ。別々のことを同時に考えていてそれが成立することがある意味自然でもあったし、葉子はたびたびそういう面を見せた。ただ、三谷が今回驚いたのはそこではない。

「――連弾?」

「そう。みっちゃんと連弾、やったことなかったよね」

 みっちゃん――伴奏を担当をしている江藤えとう颯太が名字をもじってそう呼び始め、それがなぜだか葉子に移ったのにももう慣れた。連弾か、と思って頭の中で曲数を計算する。

「来週から?」

「ううん、さすがに今回の学内選抜の予選が終わってから」

 葉子が軽く首を横に振ると、長い髪がふわりと空気をはらんで揺れた。

「まずはしっかり、颯太と林さんの伴奏を成功させること」

 自分自身が主役になる選抜試験ではない。けれど、担当している生徒にとってはひとつひとつが勝負だ。それを忘れてはいけないと、今では三谷もしっかり理解している。

「……はい」

 真面目な返答に嬉しそうに微笑んで、葉子はレッスン室の楽譜棚を物色しはじめた。歩くたびにヒールがこつこつと床を蹴る。ほんの二、三回首を傾げて棚を覗くと、葉子はすぐにあったあったと軽やかなリズムで声をあげた。

「使うならこのデュラン版がいいと思うから、来週のレッスンまでに買っていいかを親御さんに確認しておいて。今だと結構高いかもしれない」

 デュラン版はフランスの楽譜だ。輸入楽譜になるため、その分価格が高い。まずは行きつけの楽器店に電話してみよう、と思いながら楽譜を受け取ると、葉子の声が続いた。

「とりあえず貸しとくね。わたしの書き込みがあると思うけどそれは目をつぶって」

 言葉に惹かれるように開くと、少しだけ古びた紙の匂いが鼻をかすめる。楽譜は決して厚くはなく、だがしっとりとした紙の手触りが胸に響いた。そっと開いてみるとフランス語でタイトルと作曲者名があり、さらにめくると譜面には葉子――だけではない書き込みもあった。

 あ、と葉子が声を上げた。

「ちなみにわたしセコンド。みっちゃんがプリモね」

 はっと三谷は顔を上げる。一台四手の連弾では、高音域、つまりメインメロディ担当をプリモ、そして低音域で伴奏を担当するのをセコンドと呼ぶ。なんとなく自分がセコンドだろうと思いこんでいたが、――葉子の狙いがわかった気がした。

 三谷はじっと楽譜を見た。葉子はすぐにこの楽譜を出したけれど、それに至るまでにどれほどのことを考えたのだろう。脳内の楽曲アーカイブだってきっと自分の何倍もある。

 葉子とはひとまわりほど年齢が違うが、その距離はとても遠い――そんなことを考えていると、さてと、と葉子の促す声がした。

「一旦バッハに戻ろう。さっき書き込んだところを説明するね」

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