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 最初に二人でこうやって集まったのはいつの頃だっただろうか。たまたま練習棟で行きあったところで、お互いの空き時間を潰そう、というようなことだったと思う。そこには暇つぶし以上に求めるものはなかったけれど、二人の認識の中に「今やっている曲の課題点の相談」「副科ピアノの悩み」などの共通項があったというだけだ。自覚は薄いにしろ、山岡やまおかみそらも三谷みたに夕季ゆうきも、講師陣から見れば非常に勤勉で成績のよい生徒なのだった。

 当日もまた良く晴れた日になった。ただ湿気がいくぶん少なく、坂を上がっても比較的楽なのが救いだ。それでも二人は部屋に入るなり、冷房を「最強」まで連打することは忘れなかった。

 荷物を放り出してマナーモードにしていたスマホを見ると、みそらは画面に表示されている通知の多さにぎょっとした。通知件数が多く表示がたたまれている。なんとなくアプリを開くのがはばかられて通知欄をタップすると、短冊のようにバラバラと通知が落ちてきた。高校の友人たちのグループチャットだった。

『みんなもう戻ってる?』『いるよー』『昨日戻ったよ』『結婚式ぶりにお茶したいよね』『あれからもう夏って早くない?』『こっちやっぱり涼しい』『ほんとそれ』『あと誰戻ってないっけ』『みそらかな?』『既読になってないのみそらなのかも』『おーい、通知来てる?』

 みそらは反射的に通知を全部消した。すぐに次の通知が入るけれど、内容を確かめずにスマホをカバンに放り込む。

「なんかあった?」

「いや……」

 三谷に問われて、なんと答えようか迷う。胸の中にはまだ暑さがへばりついているようだった。

「ちょっと通知欄が盛り上がってるみたいで」

 三谷はそれだけでなんとなく察してくれたようだった。

「返事しとかなくていいの」

「大丈夫。もうみんな戻ってるみたいだし、いつでも」

「そか」

 そうとだけ答えて、三谷は練習室特有の背もたれのあるピアノ椅子の高さを調整する。目盛りのようになっている部分がカタカタと鳴って、エアコンの機械音と混ざった。駅前で合流してからもまだ先日の話をしていたため、話題は自然とショパンにまつわるものに戻った。

「ショパンエチュードってさ、単品でも曲として成立してるところがすごいんだよな。ツェルニーなんかだとこうはいかない」

「成立するって、『別れの曲』とかのことだよね」

 みそらの言葉に三谷はうなずいた。別れの曲、黒鍵、革命、エオリアンハープ、木枯らし、大洋……二十四曲の中でも、練習曲ではなく小品として知られているものは多い。

「たぶんそこって、ショパンの本質だと思う。曲名があろうとなかろうと、どれほどでも美しくあろうとすること」

 高さをあわせると腰掛け、三谷はちょっと思案したようだった。みそらは自分が自然と背筋を伸ばしたのを自覚した。――三谷の動作に無駄はない。アウフタクトの動作が少なく、まるで絵画の色が混じり合うように場面が変容する。引き寄せられるように、呼吸がひとつになる――

 アウフタクトの一音はまるで音のない声で呼ばれたかのようだった。三拍子のリズムが動き出すと、装飾音符に彩られた和音がロマンティックな曲想を紡いでいく。同じテーマをわずかずつ変えて行く。最初は軽やかに、次に内声がゆらめくレガートの拍子になった。体の中にある、知らないはずのリズムを呼び起こされるようで少しぞくりとする。三拍目というのは本来一番軽いはずなのだけれど、どこか次の一拍目に引っ張るような動きがある。木靴が草の上で踊るような。誰かが誰かの手を引いて踊っている。

 これがポーランドのリズム。体の中から溢れてくる――知らないうちに覚えている――その国にしかない――その国の人を形づくるリズム。

 疑問を呈するような和声が鍵盤の両端で弾ける。一度、二度、三度。

 中間部になると、今度は左手が朗々と歌いだした。それまで短調だったということを忘れていたが、同主調であるホ長調の、青く明るい色彩の中で歌うメロディのなんと伸びやかなことか。右手が細かくアルペジオで伴奏を刻み、その中で美しく展開する旋律は、テノールの美声を思わせた。右手はまるで小鳥が空に踊っているようだった。常とは真逆のバランスなのに、美しく調和した景色。左手のメロディが密やかになるとそれは途端に甘い響きを帯びて、半音の距離が肌をそっと撫でていくと、触れられたところが色めいて、どうしても胸が締め付けられる。草原で寝転がるとぐるりと世界が回って、穏やかな風と軽やかなさえずりを肌で感じる。

 ゆるやかに収束する中間部が消えると、もう一度最初の音が跳ねた。再現部だ。冒頭と同じホ短調のリズムとメロディが曲をまた紡いでいく。物悲しい中に跳ねるような半音の濁りとリズムがあることで、それが唯一の色合いになる。これが土着のリズムなのか、と、もう一度思う。

 ああ、ほんとうに、日本人にはないリズムだ。わたしたちが日本のリズムをもつように、ショパンにはポーランドのリズムがある。ショパンが愛した故郷が曲の中にある。

 長調の和声がふたたび明るく降りそそぐ。トリルと六度の和声が、音数は少ないながらも強靭に響く音が、はるかに広がる景色を呼んでいる。

 第三音が空に消えていく。見上げた空が青く、春の色をしている――

「――一昨日のこと思い出した?」

 音と似た柔らかな三谷の声がすると、景色がゆるやかに練習室に戻っていくように見えた。そこで初めて、みそらは自分がまた泣いていることに気づいた。

「あれ」

 右手で頬に触れると、生まれたばかりの水分を感じる。みそらは不思議な気分で言った。

「そうなのかな……」

 自問するように、みそらは濡れた指先を見つめた。

「いや、たぶん、たんに、綺麗だなって思った」

「そう?」

 みそらはうなずいた。三谷は少なからず驚いてはいたようだけれど、それでもなんでとか言わない。それがなぜだかとても嬉しかった。曲を聴いてなんと思おうと、どれほど涙しようと、わたしの自由だし、それをこの友人はごく日常のことだと受け止めてくれる。

 みそらは息を吸った。そして吐く。いつのまにか肺の内側に貼り付いていた夏の湿気の膜のようなものがはがれて、呼吸が深くできることに気づく。自然と笑みがこぼれた。

「綺麗だったね。今のもエチュードだよね?」

「うん。二十五の五番。いわゆる隠れた名曲ってやつ」

 ありふれた言い回しだけれど、と三谷は付け足したけれど、わかる、とみそらは思った。なんというか、――ショパンの心象が詰まっているような気がした。

 望郷という言葉がまた、みそらの中に響いた。稀代のピアニスト、パリでの成功者などではなく、ただポーランドを愛した――パリの異邦人であることを否定しない――フレデリック・ショパンという個人だからこそ書ける曲というものを、友人は見せてくれたんだろう。

 ――日本人だよ。僕らが歌っているのは、日本人のアイデンティティなんだ。

「受けようかな、学内選抜」

 氷がころころと転がるように軽やかに言葉が出ると、三谷が視線を送ってくる。言わんとしていることはもうわかる。だから、みそらは笑った。

「そのためにここに来たんだし」

「うん」

 ただうなずいてくれたのがやっぱり嬉しい。頬杖を膝の上につくと、みそらは深く考えずに続けた。

「また付き合ってよ、練習」

「それいつものやつじゃん」

「そうだった」

 お互いに笑いしか出でこない。けれど、――いつものやつじゃん――そう、いつものやつだ。いつのまにか「いつも」になっているくらいに、わたしたちはここに馴染んでいる。――ここを居場所にしている。

 窓の外を見ると、空が広い。夏の空はどこまでも暑そうで、でもどこまで青く、ここがどこであるかを証明するように輝いている。



[望郷と憧憬 了]

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