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部屋の電気をつけてはじめに目に入るのは、いつになってもピアノだ。音大受験を視野に入れた時に、古いアップライトピアノから買い替えてもらった、まだまだ新しい楽器だ。
もう時刻は二十二時を回っていたが、この防音マンションでは練習時間を七時から二十三時までと設定してある。蓋を開けてそっと高音をひとつ押すと、小さく小さく、音が鳴った。一番上のファの音が、細い糸のように部屋に広がっていく。ピアノは、打鍵のしようによっていかようにも音が変えられる稀有な楽器だ。
それにしても、あんなに泣くとは思わなかった。今日のみそらの様子を思い出して、
ごめん、と何度も言っていたのは、彼女自身ではなく三谷の体裁を気にしてのことだろう。とはいえ、自分の読みに間違いがなかったことに三谷は少しだけ誇らしく思う。
チケットをもらってくれないかと言われた時、このチケットのことをすっかり――おそらく伴奏に気を取られて――忘れていた自分に呆気にとられたが、これも何かの縁だと思えた。自分で掴みにいったものに対する、贈り物のような二枚。
行きたい人はおそらくすでに持っている。だとしたら、まだ聴いたことがない人がいい。そう考えた時に真っ先に浮かんだのがみそらだった。埋め合わせのこともあるけれど、直感だった――合いそうな気がしたのだ。演奏者と。
『家着いたよー今日はほんとうにありがとうね!』
ちょうど、みそらからチャットが入る。すぐに返事をする。
『ちゃんと着いたんならよかった』
お互いの家までは歩いて五分ほどだし送ると言ったのだけれど、そこまでしてもらわなくていいよ、とみそらはあっさりと断った。
あと四十五分、今日の練習時間はある。やるなら――ゆっくりと譜面台を見て、ベージュの楽譜に目を留めた。
パデレフスキ版、ショパンエチュード全集。
あれほどの音をもらったのだ。自分の中にも少しだけでもいい、ショパンの音を残せるように弾いておきたい。
手を石鹸でしっかりと洗って、あらためてピアノの前に座る。今日見た舞台上の景色が、シンクロするように目の前に広がっていく。
どれにしようかとほんの少し悩んで、二十五の五番に決めた。テクニックの細やかさに裏打ちされた、美しく、上品なメロディをもつ曲だ。まずは中間部の右手のリズム練習から始める。
右手の二の指と五の指、そして四の指が和声を作っていく。しかも素早く動くため、きちんとリズム練習などをしないと筋を傷めてしまう。その怪我を最小限にするためにあるのが基礎練習だ。ピアノ演奏の運動というのは、非常に筋肉や腱に大きく負担をかける。
右手をひたすらリズム練習で追っていく。その際に気をつけるのはただマシンのようにリズムと音を追うのではなく、曲想を再現しながら演奏することだ。
ショパンはつねに、美しくなければならない。
右手のリズム練習をひと通り終えると、次に和声の上だけを抜き出したライン、下だけを抜き出したラインを紡いでいく。指が確実に独立しているのかを確認し、今度はその部分の左手に移る。――そんなことを繰り返しやって、はっと顔を上げた。
二十三時、を、八分過ぎている。
八分なら誤差の範囲内だ。思わずほっとする。とはいえ時間がやっぱり足りない気がして、三谷は小さく息をつきながら鍵盤の蓋を下げた。
ショパンのエチュードは全部で二十四曲あるが、特徴は何と言ってもその美しさとテクニックの難しさの調和だろう。
練習曲ながら小品として成立する曲の完成度。和声感、左右のバランス――とくに右が旋律になり左が伴奏を奏でる時のバランス感覚は他に類を見ない。特待生の試験やコンクールの試験曲に使われるのも、演奏者のテクニックと解釈の程度がよくわかるからだ。
みっちゃん、ショパンは絶対に美しくないといけないよ。
担当講師である
ショパンは絶対に美しくなければならない――今思えば、高校のうちにショパンエチュードの半分ほどをやらせた先生は、もしかして音大受験を志望した時に困らないようにしてくれていたのではないか。ここに入って気づいたが、ドビュッシーの「映像」など自分がやってきた曲には、音大生がやるような曲も多く含まれていた。
これは誰にも言っていないが、高校までの担当講師からはこの大学の受験を止められた。というのも彼女が当時講習会で小野教授のレッスンに当たり、とくにその奏法が合わないと感じたからだった。小柄な小野教授と、どちらかといえば背が高く手の大きな自分とでは、奏法が合わずにいずれ決裂する――実際のレッスンを通してそう予感した彼女は、別の有名校を受験した。
誰に当たるかはわからないから、念のため外しておくのも手よ。
当時四十になったばかりの担当講師はそう忠言してくれたが、高三の夏休みのあの特待生演奏会の音を聴いたなら、もう他の学校は選べなかった。
そうして見出してくれたのがその小野教授であるのは、運命のいたずらと言えるのだろうか。
少なくとも葉子の奏法は三谷には合っているように感じられた。もしかしたら葉子自身も、小野教授の奏法に合わない部分があったからこそ、いまレッスンでは体の使い方を口を酸っぱくして言うのかもしれなかった。
みっちゃん、頭を下げないで。頭が下がると音も下がる。それに、左右のバランスも取りづらくなるよ。ショパンはとくに左右のバランスが肝要。スケルツォ二番の最後なんて、両手を広げるし、オクターブ移動も多い。身体はとにかくフレキシブルに構えないと、あなたの身体を壊してしまう。それがショパンの怖いところでもある。
進学校にいた自分にも分け隔てなく、葉子は音楽が何たるかを教えてくれる。その生活は二年前には夢想の中にしかなく、今がどれほど恵まれているのかもわかる。――そのぶん、就活が厳しいことも。
それにしても、気に入ってくれて良かった。CDを見つけて軽く埃を払いながら、思考はまた今日の友人の姿に戻る。
初めて聞いた時に、自分も同じことを思ったものだ。蓋から羽が舞い踊る。あれこそがショパンの魂なのではないかと思う。不死鳥にも喩えられる故国ポーランドを愛し、深く愛し抜いてついに帰国できずにフランスに没した稀代のピアニスト。
――木村先生に言われたの。わたしたちはイタリア歌曲を歌えるけど、イタリア人は日本歌曲を歌えないだろうって。なんだかそれを思い出したよ。
水滴を落としてスカートを押さえているみそらの姿はなぜか印象的だった。たしかあれは結婚式に使ったものだと言っていた。――もしかして、あれが帰らない理由なのではないか。
コンクールのDVDを見つけて、ふっと息を吹きかけるとこちらも小さく埃が飛んだ。もう一度ピアノの前に来て、楽譜を見つめる。
高校時代の友人が見ても、とにかく何かの暗号にしか見えないらしい楽譜。けれど、これが自分たちの言葉だ。国境を持たず、音楽というジャンルで生きる自分たちのボーダレスさを象徴する共通言語。
もう一度時計を見ると、二十三時を二十分過ぎている。楽譜を閉じると、彼はCDとDVDをカバンにしまった。
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