6

「……おさまってきた?」

「うう……ごめん」

 みそらは目元をハンカチで押さえたまま言った。

「とりあえず買ってくるよ。サイズはグランデでいいんだっけ」

「うん、申し訳ない。ついでにお手洗いに行っていい?」

「うん」

 貴重品だけは持って、という声に洟をすすりながらうなずくと、みそらはトイレに、三谷みたにはレジに向かった。

 空いていた個室に入り、みそらはふうと息をつきながら鏡の前に立った。今着ている黒いワンピースは春先にあった地元の先輩の結婚式で着たもので、お気に入りの服だった。コンサートなんかにも重宝しそうだとこちらに持ってきていたが――まさかこんなに泣くなんて。

 腫れてはいないが、真っ赤になった目を見て情けなくなり、鏡の中の自分がため息をつく。店内は夕飯前に立ち寄った人で増えていて、もしかしてこれ、三谷に泣かされてるように見えるのかな、と思いついたみそらは深く反省した。そんな勘違いをされたら三谷は大迷惑だ。なんとか落ち着いて、――そうだ、化粧も直さないと。みそらは小さなポーチから最小限の化粧道具を取り出した。

 埋め合わせのお誘いは、その日の夜にあった。某国際コンクールで優勝したこともあるピアニストのコンサートは、前期のはじめあたりに学内の学生に限定した特別チケットとして掲示されていたものと同じだった。専攻楽器と違うことと、夏休み中であることを理由に申し込みを足踏みしていたので、素直に嬉しかった。

 休憩を挟んだ後半プログラム、冒頭のショパンソナタ、最初のフレーズ。――たぶん一生、忘れることはできない。

 なんだこれ、張り巡らされた弦から金の羽が舞ってる。

 前半からその音の上品さとショパン・プログラムに対する解釈の深さは際立っていた。しかし後半のソナタは――どうやらコンクールでも弾いた曲らしい――まるで天界とこちらをつないだようだった。圧倒的な音楽。時間と時と場所を超えて、ショパンの意思が忠実に再現される。

 これがショパンなんだ。この上品さ、この激情。すべてはポーランドへの愛ゆえの。

 気づけば涙が溢れていて、終演後もそれは止まることがなかった。このままでは電車に乗れないからどこかに入ろうと足を運んだのが、ホール近くにあるいつものコーヒーチェーン店だった。

 きちんと化粧を直し――まだ目はやや赤いが――全身をくまなくチェックする。うん、服もかわいい。髪もちゃんとまとまってる。

 トイレから出て席に戻ると、すでに友人はカップをふたつ持って席に戻っていた。

「ありがとう。お金は」

「あとでいいよ。落ち着いてきた?」

「だいぶ。……ほんとごめん、こんなに止まらないなんて」

「いや」

 わかるよ、というすんなりとした返事に、みそらは相手をじっと見た。今日は三谷も試験の時のようなモノトーンの上品な服装におさめていて、そうすると彼の端正さがとても際立つ。服で雰囲気が変わるのは、もしかしたら音楽をやる人の特徴なのかもしれない。

「俺も初めて聴きに行った時、どうやって帰ったかあんまり覚えてないんだ。あの演奏はそういうやつだと思う」

 時間と場所と空間を超越して、作曲者――今はもう天にいるはずの――がその場に降りてくる。その様子は神々しいとしか言いようがなく、自分の無力さにほとんど絶望しながらその奇跡にただひたすらに歓喜するしかない。圧倒的な祝福のエネルギー。地上にいながら天上を垣間見るような、そんな異次元の空間。シャンデリアの金なのか、音の金なのか――とにかく光り輝く舞台。圧倒的な美。あれが、――ポーランドのショパン。

 ピアニストは、ショパンの故郷であるポーランド出身だ。だからだろうか、あまりにも齟齬のない音楽に、これが本来のショパンの音なのだと無条件に納得してしまう。

「あまりにも普通に弾いてるから、一回『難しい』の概念がふっ飛んだっていうか。あれが国の違いなのかな。ショパンだと構えるんじゃなくて、ショパンという同国の先輩のものというか。特にリズムがそうなのかも」

「マズルカとかポロネーズ?」

「そうそう。日本人はもちろんだけど、西洋の他の国のピアニストでも、あれを捉えるのは相当難しいはずなんだ。国がぜんぜん違う。国家としても、気候も、人種も」

 三谷はそこで一口、コーヒーに口をつけた。みそらも思い出して、同じように口をつける。豆乳の甘みが口にひんやりと広がって、ゆっくりと胸の中に落ちていく。

「あれはポーランド特有のリズムで、綿々と受け継がれてる。あの国の人たちにとって、ショパンはそのままポーランドっていう国そのものなんだ。その国を背負ってるからこそ、ノーブルで美しいんじゃないかと思う」

 国を背負っているからこそ、ノーブルで美しい。

 ふと、木村先生の声が聞こえた。――僕たちは日本人のアイデンティティを歌ってるんだ。

「あの人のCD持ってるから聴いてみる? どれがいいかな……やっぱりショパンからかな」

「聴く聴く。コンチェルトも聴いてみたい」

 三谷の提案は、素直に楽しみだと思えた。まったく違う専攻だけれど、惹かれるものがあのピアニストにはある。息を吸って吐くと、やっと視界に映る世界が現実のものだと思えてきた。

「こないだね、木村先生に言われたの。わたしたちはイタリア歌曲を歌えるけど、イタリア人は日本歌曲を歌えないだろうって。なんだかそれを思い出したよ」

 ひとつの単語がみそらの中にふわりと浮かんだ。

 ――望郷。

 ワンピースの膝あたりに、カップから落ちたらしい水滴が小さく浮いていた。にじむことなく、丸く光を弾いている。それに気づいたみそらは、ハンカチで丁寧に押さえて水分を拭き取った。

「山岡、あさってヒマ?」

 みそらは顔を上げて、友人をまじまじと見た。

「前から思ってたけど、三谷って女慣れしてるよね」

「なんだそれ」

 三谷は呆れたように言ったが、みそらは間違いないと踏んでいる。この誘い方もそうだし、指の長さ見てるとかぜったいそうだ。噂は聞かないけど、要するに噂を聞かないレベルでやれるタイプなんだろうな。

 明後日とは月曜日のことだ。だいたい内容は察せられた。ハンカチをカバンにしまって、みそらは先の質問に答えた。

「ヒマだよ。学生だもん、いつでもヒマです」

 先日と似たような答え方に、三谷はテンプレか、と笑いこぼしたようだった。

「こないだ途中で抜けちゃったし、CDも渡そうかなと思って。鉄は熱いうちに打てって言うし」

「わたしのショパン熱ですか」

「そういうことです」

 友人の返事にみそらは小さく笑った。たしかに違う専攻の人に自分の専攻楽器について興味を持ってもらえるのは嬉しいことだ。それに、自分の中にも音があるのがわかる。体がショパンを求めている。あのリズム、あの和声。ショパンにしかない音楽。

 彼はスマホを取ると、ブラウザを立ち上げたようだった。練習室の予約は、学校のシステムを使ってできる。

「また二時間くらい取っとくかな……」

 こないだみたいなことはしばらくないと思うけど、と小声で続ける。みそらは三谷の手元を覗き込んだ。

「山岡、希望時間ある?」

「どこでもいいよ。あ、でも今度は休み時間長くてもいいかも」

 みそらの言わんとしたことがわかったのか、たしかに、と呟いて三谷は画面をタップする。「ここは?」と見せられた画面は、みそらの思い描いていたスケジュールと一致した。

「ばっちり」

 にっこりと笑うと、三谷も頷いて予約を進める。コーヒーを片手に店内を見るとまた人が増えていて、けれどもう誰も二人を気にしていなかった。レジの奥に見える外の景色は、藍色の静けさを帯び始めている。夏の宵の切なさはまた秋とは違うな、と思う。

 こんな景色を、ショパンも見たことがあるのだろうか。宵の色は、またポーランドだと違うのだろうか。――その生涯をパリで終えることになったショパンにとって、故郷とはどういうものだったのだろうか。

「ご飯どうする?」

 声が聞こえて、はっとして視線を戻す。いつもより綺麗めに調えられた服は、彼の品の良さがにじみ出ているように思えた。クラシック音楽は一般的なイメージほど敷居は高くない。ただ、教養というものはふとしたところで透けて見える。そういうものを今日の三谷は体現しているようだっだ。

「せっかくだからこのへんで食べたいな。贅沢だけど、家に帰って自分で作ると、聴いたものとちょっとズレそうでもったいない」

「じゃあ、俺、行ってみたい店あるんだけどどう? 和食だけど」

「和食なの。ショパンの後に」

 みそらは目を丸くしたが、三谷は動じなかった。

「雑穀米を使った料理が人気で、ディナータイムでもセットなら一人頭三千円くらいです」

「行きます」

 予想より安い金額に思わずみそらが即答すると、三谷は眉尻を下げて笑った。

「げんきんだなあ」

「日本人なので、日本人が愛するものを食べていいかなと」

 まあ異論ないけど、と三谷が言うので、みそらも微笑んでゆっくりとラテを飲んだ。

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