5
「うっ……微糖……」
十六時になり一度練習棟をあとにした二人は、夏休みでがらんどうの学食にやってきた。自販機の前に立ったみそらはボタンを押す手のまま、そう呻いたきり動きを止めている。彼女の後ろから
「ない?」
「ないー。あとはラテだけどこっちも砂糖入ってる……なぜブラックを置いていない……」
唸っていたみそらだったが、勢いをつけてボタンを押した。ICカードをかざすと電子音が決済を告げ、ガコンという音とともにボトルが落ちてくる。みそらが拾い上げたのはブラックの微糖だった。
「微糖のくせにブラック表記とは……」
「まあまあ」
と、みそらの言葉に笑いながら三谷も同じような動作を繰り返す。取り出し口から出てきたのはみそらが買ったものと同じだった。
「駅前まで行けばいいんだろうけど、さすがに一時間であの坂を上下したくないというのが、当大学のネック」
三谷もみそらの言葉にうなずいた。彼らの学校は長い坂をのぼったところにあり、二人がよく鉢合わせるコーヒーショップはそこを降りた駅前にある。これからまだ一時間、練習室を押さえている身としては、体力は練習に使いたいと考えて当然だった。
蓋をあけると、ペットボトル特有の空気の音がする。と、みそらは友人が自分の手を見ているのに気づいた。
「……なんかついてる?」
ついてるとしたら指輪くらいのはずだけど、とみそらは自分の手を見返した。ごめん、と三谷が苦笑いしながら首を横に振った。
「四の指のほうが長いなって」
前から思ってたけど、と言われ、なるほどとみそらは思った。ピアノ専攻が言う四の指とは、薬指のことだ。両手を祈るように合わせた親指側から、一の指、二の指と五の指まで続く。みそらはペットボトルを持たない右手を顔の前に掲げた。たしかに人さし指よりも薬指のほうが爪半分ほど長い。
「よく気づいたねー。これ、友だちから『男脳』って言われるんだけど」
薬指が人差し指より長いと男脳、という迷信のような話だ。三谷は蓋を開けながら言った。
「ピアノ科だから思うのかもしれないけど、オクターブの時に有利だなと思って」
「オクターブ?」
「そう」
こうしてみて、と三谷は掲げた左手を外側に傾けた。
「こうすると、五の指より四のほうが外側に出る」
みそらも同じように手を傾けた。
「あ、ほんとだ」
角度にもよるが、薬指の第一関節がまるまる、小指より外側に来る――ということは、薬指で、小指や中指より遠い位置にある鍵盤を掴むことができるのだ。
「こうなってると、オクターブで移動するときとかに便利なんだよ。五の指で白鍵、四で黒鍵やるとか。ショパンエチュードの二十五の十番とかまさに活躍してる」
「ほー……」
みそらは感心してもう一度自分の指を見つめた。男脳と言われる指も、そう考えればいいのかもしれない。……ピアノ専攻じゃないけど。
さっそく汗をかき始めたペットボトルを手に、二人は中庭が見えるテラス席へと移動してきた。夏休み中であるおかげで、席に困ることはない。
「そういえば、かなちゃ……」
言いかけて、みそらは訂正した。
「諸田さんから連絡来てた。やっぱりもう実家に帰ってたよ」
「早いなー」
「新幹線ですぐらしいの。たまに週末も帰ってるみたいだし」
椅子に体を預けると、練習時の無意識の緊張がお腹の底からゆっくりと溶けていくようだった。少し風が出てきたこともあって、日陰のテラス席は、気づけば駅前の店と同じくらいに居心地が良くなっていた。
「諸田さん、練習どうするんだろ。実家にも楽器あるのかな」
「どうするんだろね。あんまり聞いたことなかったな……」
諸田とは高二の時に参加した講習会からの付き合いだが、おそらく特待生などといった人種とは別の属性だ、とみそらは踏んでいる。音楽をやるのは大学までで、コンクールなどには積極的に参加しない、というスタンスだ。でなければあんなに頻繁に実家に帰りはしないだろう。彼女よりは断然遠いところに実家があるみそらからすれば、じつに羨ましい限りだ。
今頃、地元の友だちとかと遊んでるのかなあ、と思いながら少しぬるくなってきたコーヒーを口にすると、奥のほうで砂糖の粗い甘みが広がった。
「三谷も近いよね。いいなー」
言うと、先日ピアノの担当講師と話した内容が思い出された。彼らのピアノ担当講師の地元は、みそらと同じくらいに遠い。
「こないだ、
「コスト……」
呟いてからひと口コーヒーを飲んで、三谷は続けた。
「コストで言えば
「どういうこと?」
「あの人の実家、電車で二時間かかんないじゃん。その二時間を確保するために部屋借りて、実際に特待生に受かってって、ちょっと頭おかしいよね」
非難の意味ではないということはみそらには伝わっている。芸術や芸能の世界での「頭がおかしい」は、いつの時代もだいたい褒め言葉だ。
とはいえ、それでも三谷の実家は近いほうだ。確か電車で二時間ちょい。うちに帰るとなるとまだ新幹線も降りていないし、そもそも江藤先輩とそんなに変わらない。そんなことをみそらが思っていると三谷はぴんと来た顔をしていた。
「人のこと言えないと思ってるだろ」
「ご明察です」
「俺がここにいるのは学生だからだよ。ちゃんと就職は別で考えてるし」
三谷が進学校からの進路を蹴ってここにいるのはもう周知のことだ。それでも音楽は学業であると割り切っていると何度も本人の口から聞いているし、一貫して音楽の道に居続けようとする江藤先輩とは覚悟が違う、そう言いたいのだとみそらもわかっている。
コストどころの話ではない。――音楽につきまとうのは、いつもリスクの話だ。
「みんな帰ってきてるといいんだけど」
話聞きたいんだよね、と彼が言ったのは、おそらく高校の時の友だちにだろう。みそらはふと思い巡らせた。
地元の友だちか。短大や専門学校の子は今年もう就活だっけ。早い。なんだかこんなにのんびりとコーヒーを飲んでいると、そういったことを忘れそうになってしまう。微糖のくせに。
「わたし、三谷と友だちでよかったな」
「なに、いきなり」
「うちの学校、古いだけに外界からの隔絶がすごいじゃない。門下の争いとかコンクールとかレッスンが日常で、争ってるのを嫌だ嫌だって言ってることさえぬるま湯になっちゃう。でも本当はそうじゃないってことを、都度ちゃんと言われてる気がする」
みそらが半分ほど空になったペットボトルを軽く揺らすと、中で黒いコーヒーがゆらゆらと踊る。ピアノの色に似ているなとぼんやり思う。
「いい意味でぶん殴られるよね。ありがたい」
三谷がむせた。
「どうしたの」
みそらが訊くと、いや、と三谷は言ったようだった。咳き込んでいるのでみそらは使っていないタオルハンカチを探そうと椅子から背を離したが、三谷は頭を横に振った。どうやら持っているから大丈夫ということらしい。
「ぶん殴られてありがたいって言葉のチョイスがなかなかパンチある」
どうにか呼吸の合間にそれを言って、三谷はカバンから出したタオルであらためて口を押さえた。続いた声は布越しで、ちょっとくぐもっていた。
「どうやったらそんな言語回路になんの?」
「どうって……」
言いかけたみそらは、テーブルに出してある三谷のスマホに気づいた。正しくは、そのマナーモードのスマホが着信を知らせていることに、だ。
「電話鳴ってる」
「あ、――ごめん」
みそらはうなずいた。江藤先輩からの着信だと見えてしまったが、だからこそ応答するのが当然だと思えた。
「はい、もしもし」
席を立って、少し離れたところで三谷が通話を始めた。そこから視線を外し、みそらはぼんやりとペットボトルを揺らしながら空を見た。
昨日とよく似た色のようで――いや、あの日に似ているかもしれない。二年前の夏の講習会。ホールから出た時に見た空の色がこんな色だった。
水色の中に白い雲がなびいていて、セミの声が木のそばだとわんわんと響く。それを押しのけるように、ロシアの風景がまなうらによぎる――
「ごめん、次の時間できなくなった」
戻ってきた三谷が申し訳なさそうに言う。じつはそんな予感もあったみそらだったので、軽く訊いてみる。
「何かあった?」
「ヘルプだって」
「ヘルプ?」
カバンを手早く片付けながら三谷はうなずいた。
「うん。急ぎで今から対応できる伴奏者を探してるって」
短い説明だったが、みそらはなんとなくわかるような気がした。江藤先輩だったら、担当講師の山本先生か、それか以前の伴奏者で今は他大学で作曲を学んでいる藤村先輩の関係か。いずれにしろ、断る理由はない。――どんな時であれ、チャンスは貪欲に掴みにいくべきだ。
「じゃあわたし、次の時間、自分で使ってもいい?」
「うん。ごめん、埋め合わせするから」
律儀だなあ、と思いながらみそらは手を振って友人を送り出した。こういうことがあるから実家に戻らないし、自分の学内選抜の話もすぐにうんと言えないのだろう。
どんな時であれ、チャンスは貪欲に掴みにいくべき。さっき自分で思ったことを反芻する。
風が頬を撫でた。地元の風とは違う暑さを感じる。わたしはまだ帰らないけれど、それは何のためだったか。
スマホの時計を見ると、いつの間にか次の時間の十五分前になっていた。みそらはペットボトルに残っていたコーヒーを片付けると、カバンを抱えて席を立った
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