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 最初に聴いた三谷みたに夕季ゆうきのピアノ独奏曲が、ドビュッシーの「映像」の一曲『水の反映』だった。

 ドビュッシーといえば『亜麻色の髪の乙女』や『月の光』といった穏やかな曲が有名だと思っていたが、この曲はとてもエキゾチックだった。楽器がもつ響きを計算し尽くした和声に、肌の中を撫でられたように感じたのを今でも覚えている。

 興味が湧いていくつか同曲の音源を漁ってみたけれど、三谷夕季の演奏はやはり三谷夕季だけのもので、ほとんどあれがみそらにとっての「ドビュッシー」になってしまった。どのタイミングで誰の演奏を聴くかというのは、本当に重要なことだと思う。

 三谷にとって『水の反映』はいわゆる持ち曲なのだろう。四月に入ってすぐに行われる演奏会で選ぶ曲というのは、もともと練習していた曲だということだ。そんなことを伴奏者である諸田に言うと、彼女もうなずいた。

「まあ、あれを新入生で弾いちゃうあたり、ネジが飛んでる気はするけど」

 そう続いた諸田の感想に悪意はないようだった。ドビュッシーを含む印象派は、学年が上になってからやることが多いらしい。声楽専攻でいう日本歌曲のようなものだとみそらは認識している。

 でも、弾き慣れていたというだけではこんなにも印象に残らないし、周りの反応もああはならないだろうな、とみそらは何度目かに思った。三谷が小野教授に気に入られている、という噂を裏付けるだけの力量を披露することになったのが、当時行われた門下生発表会だった。――その三谷と、あれから一年と数ヶ月が経って、思いのほか仲良くなった。

 全員がそうとは言い切れないが、大学ならではの授業形態のおかげか高校までのような紋切り型の人間関係を求められていない、とみそらは考えている。そこは高校の時に夢想したのと相違なく、誰と仲良くしようが、空き時間に一人でいようが気にしない淡白さが大学にはあった。

 その中でもピアノにおける同門だということもあるし、波長が似ているのだろう。今回のようにたまたま入った店でみそらが三谷と鉢合わせたのは、もう一度や二度どころではないが、そこですぐに付き合うとかの恋愛思考に陥らないで済む。――と、そこまで考えてふと、今年に入って「だからみそらちゃん、誰とも続かないんじゃないの」と諸田に言われたことを思い出した。

 みそらちゃん美人なのに、全然男の人を優先しないじゃん。かと思えば三谷くんと練習室とかにいるし、だからあんまり続かないんじゃないの?

 その時は、そんなもんだっけ、と首を傾げたが、たしかに頻繁に会っている。時間を合わせるなら映画よりもつい練習室を優先してしまう。というかそのためにこの学校を選んだというのに、地元でもやれる映画館デートと天秤にかけてどうするんだろう、という考えなのだけれど、諸田はそうではないらしい。彼女はこういうことには無駄にさといしうるさい。

 数ヶ月の時間を経て友人の言葉を受け入れることになったけれど、べつに恋愛をしないというつもりもない。それに声楽には「演じる」という部分があるため、他の専攻より見た目にもとやかく言われがちだ。みそらとしては十分に気をつけているつもりだ。

 風呂掃除が終わっていないことに気づいたみそらはベッドから起き上がった。暑さからの疲れが出て少しの間ぐったりしていたが、横になっていたおかげでだいぶ頭がすっきりしている。と、そこで友人がコンチェルトの学内選抜を受けるように言われていたことに思い至った。テーブルの上に放っておいたスマホを手に取る。

『今気づいたんだけど、伴奏とコンチェルト、両方出られるの?』

 メッセージを送るとそのまま風呂場へ向かう。手早く掃除を済ませて、次は洗濯じゃなくてご飯の準備かと思案しながら部屋に戻ると、ちょうどスマホの画面が着信で光った。そのまま取り上げて、チャットアプリを立ち上げる。

『できるよ。そもそも主催が別だし、いちおう確認もした』という言葉が、ふたつの吹き出しに分かれて並んでいる。

「抜け目ないなー……」

 思わず感心した声が漏れてしまう。こういうタイプだと安心して伴奏を頼めるというものだ。直近になって規定違反で伴奏者がいない、なんてことになっては元も子もない。考えただけでもぞっとするが、同時にやっぱりとも思う。

 やっぱり、引く手あまたっていう噂も本当なんだろうなあ。

 ピアノ専攻の生徒のほとんどは、少なくとも一人くらいは伴奏を担当している。しかしピアノ独奏がうまいからといって必ずしも伴奏がうまいとは限らないのが、伴奏の難しいところだ。

 みそらの通う学校もそうだが、伴奏というのは必須科目として講義があるものだし、大学院のコースが設けられている学校もある。また、オペラや楽団、大きなバレエ教室などの専属伴奏者となるとかなりの狭き門らしい。それほどにピアノの独奏と伴奏とでは学問としても明確に違うのだ。

 独奏者の呼吸を読んで、それに自分の息を合わせる。誰もができないことを当たり前のようにやってしまうから、三谷夕季の伴奏者としての価値は、とても高い。

 履歴を少しだけ遡ると、明日の練習時間の連絡にたどり着く。練習室は一時間単位での貸出しだが、それでは足りないと踏んだ二人は二時間、部屋を取っていた。

 途中に一時間のブランクを挟んで、十五時から十八時まで。

 ふと窓の外を見ると、夏の白さに夕焼けの赤が混じり始めている。東から西へ、水色から茜色へのグラデーション。

 明日も暑いんだろうなあと思いながら、楽譜や教材を詰め込んだ棚の前で膝をついて、一冊のファイルを取り出す。数週間ぶりに開いた『私の名前はミミ』の楽譜を手に、みそらはもう一度外を見た。

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