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このこともあって、夏休みになったというのにみそらは実家にも帰らず、大学のほうで過ごしている。講習会で開催される特待生演奏会に行きたいとか、大学の友人と遊ぶとか、同じようにこちらの大学にいる地元の友人と会うとか、大学の大先輩にも当たるソプラノ歌手の演奏会が八月に行われるといった学生らしい理由も、もちろんある。
まあでも、かなちゃんからはいい返事はまだもらってないな、と諸田のことをぼんやり考えながら行きつけになったコーヒーショップで商品を待っていると、右側から聞き慣れた声が自分を呼んだ。
「山岡」
顔を振り向けると、声と映像がぴったりと重なる。ちょうど空いた席がちらほらある店内に入ってきたばかりという風情なのは、先ほどみそらが見上げていた舞台にいた人物だった。
「
軽く手を振りながら、おつかれ、と声をかけると、あちらからも小さく同じ言葉が返ってくる。みそらが席を指差すと彼はひとつうなずいて、そのままレジに向かった。
商品を受け取って席に戻ると、三谷
「……なに?」
視線に気づいたようで、三谷が問う。みそらは思わず苦笑した。
「ごめん、暑いからそっちにしてもよかったなーって、つい」
「レシートいる?」
はい、と手渡されかけて慌てて押し戻す。
「え、いいよ、三谷のだし」
「じゃあテーブルに置いとこう。どっちか飲めるほうが使うってことで」
あっさりと言うと本当にそれを二人の真ん中に置き、同級生は席についた。つかれたー、と小声で言うのがみそらの耳を撫でる。
「
「帰ったよ。今日は用事があるって。元気だよな」
元気だよな、の言葉にどうにも彼の疲れが見え隠れしているような気がしたが、それを言うのははばかられた。みそらがストローで氷を転がしていると、ころころとした音の上に、どうだった、という声が重なった。なんだか伴奏とメロディのようだ。
「よかったと思うよ。江藤先輩、前列の女子、何人か落としてたよね。あれ来年本当に入学するかもって思った」
「ああ、それ、俺も見た」
ちらっと笑う三谷を見て、それはきみも同じなのでは、と思ったが一応みそらは黙っておくことにした。
「それだけ?」
「それだけとは」
「他になんか感想ないのかと思って」
みそらは首を傾げた。曲は知らなかったけれど曲想はしっかり伝わってきて聴いていて飽きなかったし、先ほどの高校生たちではないが先輩の立ち姿もかっこよかった。同じように伴奏者が必要な楽器をやっている立場から見て、伴奏もよくできていると思う。特待生演奏に値する演奏だった。――と、いい点なら迷わず出てくるが、友人が言っているのはそういうことではない。みそらはなんとか言葉を絞り出した。
「うーん、もしかしたら、もうちょっと間奏とか主張してもよかったのかも」
相手が軽く目を見はったのを確認して、みそらはさっとペンで線を引くように「あえて言うならだからね」と続けた。
「このままじゃ粗探しみたいになるよ」
それだとまったく本意ではない。三谷はごめん、と言ったようだった。言葉とは裏腹に、その声はちょっと笑いの色を帯びている。
「山岡だったらなんかあるんじゃないかと思って」
「わたしだったら?」
「耳がいいから。何かしら思うところがあるんじゃないかと」
さらりと言って、主張ね、と三谷は小さく繰り返した。カップを回すと、こちらもころころと軽やかな音がする。
考え込んだ友人を見ていると、江藤先輩は確実に学内選抜を受けるはずだと思えた。それにひきかえ、自分はまだそれを受けるか決めかねている。無意識にみそらが息をつくと、今度は三谷が首を傾げた。
「なんかあった?」
「ああ、ごめん」
なんだか話を聞いてくれと言わんばかりになってしまったとみそらは内心で反省した。こうやって当たり前のように二人で座っているが、そもそもここで合流する約束もしていない。それでもこうやってやり取りが成立するのが、みそらと三谷の関係だった。
「前期最後のレッスンで、学内選抜に出てみないかって言われた」
「出たらいいじゃん」
軽い返事に、みそらは思わず相手を見つめた。そのなんとも言えない湿った視線に、相手がややひるむ。
「え、何かあった?」
「……声楽専攻の学内選抜なんて出来レースだと思わない?」
「ああ……」
三谷はみそらの言わんとしたことを察したようだった。少しだけ黙ると、店内の喧騒が耳に迫る。先ほどより少し、人が増えたのかもしれない。
「……俺、所属する門下で結果が変わるっていうの、入学してから知った」
人の声をかき分けて、友人の声がそう言うのを聞いた。瞬くと、自分のまつげが視界の隅で上下するのが見えた。
三谷夕季の話はわりと有名だ。入学前の講習会ではほとんどコネクションを持たず、かと思えば一般試験を受けた中で、ピアノ専攻の中でも有名な小野教授に見出されたと聞く。
「うちの門下にいても実害がないから忘れそうになる。……とは思ってたんだけど」
みそらはもう数回瞬いた。「とは思ってた」?
視線で続きを促すと、三谷はちょっとだけ苦笑いをしたようだった。
「ごめん、俺も本当は出ないかって言われてて。同じやつじゃなくて、コンチェルトのほうなんだけど」
「ああ」
そういえばコンチェルト(協奏曲)の案内も出ていた。メインで関係があるのはピアノ専攻なので内容ははっきり覚えていないが、――みそらははっとした。じゃあなんでさっき、「出たら」なんて言ったんだろう。
そんな考えが顔に出たのか、ごめん、と三谷はもう一度言った。
「伴奏、三つ持ってるから、そういう意味で断ろうかなと思ってたんだよ。江藤先輩にも言ってない」
出たらいいじゃんって言われると思って、と三谷は続けた。確かに江藤先輩なら言いかねないなとみそらも思う。ああいうタイプの人は、自分が舞台の上で戦うのを疑わない。――だからこそ、三年連続で特待生として生きていける。
「たしかに、言われそうだよね」
みそらがまつげを伏せて言うと、三谷は意外そうに首を傾げた。
「怒らないんだ?」
「怒る? なんで?」
「他人に言う前に、自分が受けろって言うかと思った」
「……否定はしませんけど」
みそらが低く呟くと、正直だな、と三谷が笑う。
「でもなんか、山岡の話聞いてあらためて思ったよ。うちの門下、まだ強豪でもなんでもないけど、先生だって色々考えてるんだろうな」
ころろ、とまたカップ内の氷が踊った。三谷のコーヒーは三分の一ほどまで減っている。
「山岡は休み中、実家には戻らないの?」
「うーん、戻ると練習しにくいんだよね。一応、来月のお盆の時期には一回戻る予定だけど」
友人の中ではもちろん、夏休みだからとアルバイトをする者もいる。みそらも考えたが、去年単発でやってみた時にどうしても「この時間があればあの曲が練習できる」という思考が拭えず、今年は見送ることにした。
それに学内選抜のこともある――とは口には出さず、みそらは尋ね返した。
「そっちは?」
「俺も楽器こっちに持ってきてるから。戻るとしたらおんなじ時期かな」
きっと夏休み中も伴奏合わせとかあるんだろうなあ、とみそらは思った。三谷ひとりにつき、独奏者が三人。練習時間の確保とスケジューリングが大変そうだ。そういえば諸田はいつ地元に戻るのだっただろうか。まだ帰省する連絡はもらっていないが、学内選抜の件も合わせて、再度確認しないといけない。
「じゃあ、明日時間ある?」
ぼんやりとみそらがスマホのチャットアプリを眺めていると、三谷がそう言った。
「明日? あるよ。バイトもしない学生なので一日中ヒマです」
「そんなに拘束しないよ」
みそらの遠回しな「いつでもいいよ」のアピールにちゃんと冗談を返して、彼は続けた。
「次に江藤先輩に会う前に、今日の感想を深掘りしときたくて。練習室取るから、意見もらっていい?」
「うん、わたしで良ければ」
「ありがとう、助かる」
相手が特待生だと、伴奏者だって自主的に勉強をしないとついていけない。みそらは身を乗り出し、両肘をテーブルにのせた。ふたつのカップの間にあるレシートを指先でつつく。
「お礼はこれでいいよ」
「ほんとにこれでいいんだ?」
「もちろん」
笑顔で言い切り、ICカードを手にして立ち上がる。買ってくるねと声をかけると、うん、という柔らかい返答が肌を撫でた。
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