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 レッスンが終わって外に出ると、夕暮れに染まり始めた空気は秋の冷たさをはらんでいた。帰宅する生徒に混じって坂を下りながら、母親にチャットを送る。まだ仕事中だからだろう、既読のマークはつかなかったが、楽譜の購入などを渋られたことがないので今回も大丈夫だろうと思いながら歩いていく。楽譜は言ってみれば聖書のようなものだ――コピーで許されるのは伴奏譜でギリギリだと三谷みたに夕季ゆうきは考えているので、親の理解はありがたかった。

 十月になって空はぐんと高くなった。この学校に来て二回目の秋だ。なぜか後期は早く感じるものだと昨年の感覚を思い出し、これからのことに思いを馳せてみる。

 月末には学内選抜の伴奏があり、それを少なくとも江藤先輩はかならず突破するだろうから来月には演奏会本番があるし、その前の予選が終わった頃には後期試験の曲も正式に決まるだろう。並行して「動物の謝肉祭」に、江藤えとう先輩の特待生試験の曲も練習を再開する。それにインターンの情報収集も必要になってくるし、その前に自己分析とかも――

 三谷夕季が進学校出身なのは周知のことだ。さらに入学時から一般企業への就職をメインに考えていることも、葉子ようこには伝えている。大学生活に慣れてきた二年生ではあるけれど、それは同時に就活までの時間が迫っていることも意味していた。

 三谷は羽田はねだ葉子のことを信頼している。それは単に担当講師と生徒という関係を、ということではなく、自分があくまで就職には一般企業を視野に入れている上で、何を選択すべきかを教えてくれるからだと思っている。今日提案された連弾も、まさにそうだった。

 残された時間で何をやって、そのためには何を削り、何を足すべきなのかを考え、提案してくれる。ひとりの人間として信頼されているのがわかるから、信頼で返そうと思えるのだ。

 質の良いレッスンほど論理的だ、ということを彼はこの学校に来て学んだ。高校までの先生がそういうタイプだったのだと今になって思うし、それからたまたま出会った葉子も効率を大切にする。もちろん感情や情緒がなければ音楽――芸術ではないが、その基礎には弾き手がその情緒を表現するための論理展開がかならずある。音大とは高校までの教育と分けるものではなく、その勉強の延長線上にあるのだと、三谷は毎日少しずつ確信を強めている。

 そんなことを取り留めなく考えていると、あっという間に坂を下りきっていた。

 ああそうか、今週のレッスンは終わったんだ。ふとそんな気持ちが背中を叩いて、ふっと息が抜けていく。

 レッスンは好きだし楽しいけれど、一方でものすごく気力と体力を使う。まれに、命を使うとはこういうことか、なんてことも思う。それを乗り切ったのだから、ちょっと休憩したいと思う自分のことも許せる気がした。

 歩いているうちに太陽はだいぶ西に沈んでいた。鈴のような音はきっと秋の虫だ。郊外ならではの音がまた季節を知らせてくる。きっとほんとうに、あっという間に後期試験になるんだろう。

 いつもの店の前でなんとなく足を止めると、窓際の席に見慣れた姿を見つけた。思わず瞬いたが、こういったことはめずらしくない。スマホで時間を確認し、少しだけ三谷は考えて、ドアを抜けた。レジに向かう前に声をかける。

山岡やまおか

 じっと正面のノートPCを見つめていた山岡みそらは、声に反応してぱっと顔を振り向けた。

「あ、おつかれ!」

「隣いい?」

「もちろん。買っておいでよ」

 みそらの表情の変化は、花がこちらを向いた時に視界に色が灯るような鮮やかさを連想させる。そんなことを思いながらレジでコーヒーを買っている間に、彼女は近くにあったバスケットを用意してくれていた。カバンをそこに収めながら、隣の椅子に腰掛ける。

「ありがとう」

「どういたしまして。――レッスン終わりだっけ?」

「うん」

 うなずいて席に座りながら、テーブルに乗っているPCを見やった。

「レポート?」

「ううん、調べもの」

 PCを閉じ、みそらはそれをカバンにしまった。

「学内選抜の曲、『ミミ』になったんだけど、ちょっと調べないといけないことが増えちゃって」

「ミミって、もしかして『私の名前はミミ』? 去年伴奏やったよ」

『私の名前はミミ』は、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」の劇中歌で、省略してよく『ミミ』と呼ばれている。オペラ本編は十九世紀のパリを舞台にした男女の恋愛模様を描いた傑作で、ストーリー構成とそれを支える音楽の美しさが世界中で広く愛されている作品だ。

 主人公はお針子のミミ、そして彼女の相手役となるのが売れない詩人のロドルフォ。奔放で情にあふれる女性のムゼッタと、その恋人の画家マルチェッロ、そして彼らとともに暮らす哲学者コッリーネ、音楽家ショナールがメインのキャラクターだ。彼らはパリに住んでいるが、当時のパリは貧困の街だった。彼らもまた貧乏な生活で、しかしその中でも彼らなりの楽しみを見つけて生きていく。しかしそこにやってきたミミは実は病に冒されていて……という、いかにもオペラらしい内容になっている。

「これ難しいんだよね……最後のレチタティーヴォとか」

 レチタティーヴォとは話すように歌う部分のことを指す。声楽選考が歌う曲の多くはイタリア語のため、必然的にそこもイタリア語だ。日本語にはない発音も多い。

「いつかムゼッタのほうもやってみたいんだけど、これはこれで音域は高いし技術的にも難しいし」

「そういえば他のキャラクターの歌、あんま聞いたことないかも」

「そうなの? やったのは『ミミ』だけ?」

 三谷がうなずくと、みそらはカップを手にして背もたれに体重を預けた。肩口で髪がふわりとこぼれる。

「面白いよ、他のキャラクターも。ムゼッタとミミは対照的な性格のように描かれてて、……ムゼッタだと、カルメンみたいなキャラクターって解説してる人もいる」

 カルメンといえばビゼーのオペラに出てくるキャラクター、もしくはオペラの名称そのものだ。奔放で移り気な女ジプシー、カルメンと、彼女に翻弄される男たちとの恋の行方を描いたオペラだ。

 劇中の曲も有名で、前奏曲や『闘牛士の歌』のほか、スペイン風に仕上げられた『ハバネラ』は誰もが耳にしたことがある歌だろう。みそらの例はとてもわかりやすかった。

「へえ、ほんとに対照的なんだ」

「ボエームでは二人が好対照に描かれてる。ミミは清楚で可愛らしく、ムゼッタは奔放でコケティッシュ。――どっちが好み?」

「え、なにいきなり」

「アンケート。どっちが好き?」

「好みと好きでちょっと意味変わるじゃん……」

「真面目だなあ。後腐れないのはムゼッタ?」

「いや、カルメンみたいなタイプって刺されそうだし」

「正確には刺すのは嫉妬に狂ったホセで、カルメンは刺される側だし、ムゼッタには刃傷沙汰のエピソードはないよ。じゃあやっぱりミミ? 最後死んじゃうけど」

「選びにくい情報ばっかり追加されるんだけど」

「そうだっけ?」

 みそらは微笑みながら首を傾げた。その軽やかな仕種は彼らの担当講師である羽田はねだ葉子を彷彿とさせた。みそらがカップをテーブルに置くと硬くて軽い音が小さく鳴る。

「この話、プッチーニの好みにカスタマイズされてるんだって。とくにミミが」

「カスタマイズ?」

「原作があるらしいんだ。それよりもミミがもっと清楚なキャラクターになってるらしいの。例えば蝶々夫人とか、『トゥーランドット』のリューとかがわかりやすいかな。奥ゆかしくて清純そうな女性がプッチーニのタイプだったらしいよ。案外日本的というか」

「へえ……」

 初耳だった。と、そこで気づく。

「あ、もしかして調べ物ってそういうこと」

「ご明察です」

 みそらの師匠である木村先生は、三谷が伴奏を担当している林香織の師匠でもある。レッスンで木村先生が何を求めるのかは、この一年半で三谷もだいぶ見当がつくようになった。

 とくにオペラ・アリアではキャラクターの性格のほか、物語の流れ、そして作品がもつ時代背景などを考えなければならない。伴奏はあくまで曲の景色を描くものであり、そのためおもにオーケストラの分析に力を入れるものだが、主役である歌い手が学ぶべきことはさらに多岐にわたる。ピアノとの最大の違いはやはり言葉にあるだろう。

 大学ではテクニックはクリアしていて当然の要素だ。個人が一歩でも二歩でも抜きん出るためには緻密な解釈にもとづいた分析と練習が必要になる。プロの演奏家としても活躍する木村先生は、そこを非常にシビアに判断するのだった。

 みそらは当初、この学内選抜に参加するのを渋っていたようだった。それが参加するほうへ変わったのは、一緒にコンサートに行った頃だったように思う。

「楽しそうだよね、山岡」

「んん?」

 カップを口につけたばかりだったらしく、みそらは妙な声を上げた。口に入ったラテを飲み込んで、みそらは言った。

「なんかそれ、かなちゃんにも言われた」

 かなちゃんとはみそらの伴奏者の諸田加奈子かなこのことだ。三谷にとっては同じ学年、同じ専攻の同級生になる。

「あ、そういえば、今度ショパンやることになったよ」

「ショパン? 葉子先生のレッスンで?」

 うん、とみそらはうなずいた。ショパンと言えば、二人で一緒にコンサートに行ったのはもう一ヶ月以上前のことになる。

 あの金の羽が舞う、ポーランドのショパン。彼の生きた証のような音楽を、同じ国の人が紡ぐ奇跡のような時間。

「最近も貸してもらったショパンの曲聴いてるって一昨日のレッスンで話したら、じゃあワルツをやってみようってことになった」

「まじ?」

「まじまじー。いつかやってみたいと思ってたからほんと嬉しい。楽譜も貸してもらったよ。何版だっけ、あのクリーム色の……」

「パデレフスキ版?」

「あ、そうそれ。曲、自分で選んでみないかって葉子ちゃんが言ってくれて……」

 軽やかに喋っていたみそらは、けれどゼンマイ仕掛けの人形がふと止まるように言葉を止めた。そして長いまつげで縁取られた瞳で、ゆっくりと三谷を見つめた。

「……近いうちに空き時間ある?」

「空き時間? ……あ、わかった」

 思わず言葉がこぼれてしまう。みそらが大きく目を見開いた。

「わかった? ほんと? さすが」

「あー、言わなきゃよかった」

「まだ合ってるかわかんないよ?」

「合ってるよ。――ワルツ弾いてほしいってやつにコーヒー一杯」

「おー、本日二度目のご明察。今度奢るね」

 胸の前で小さく拍手をするみそらを見ながら、とりあえず思いついた反論を投げかけてみる。

「ていうか、CDのほうがよくない? プロが演奏してるわけだし」

「なに言ってるの。友だちが弾いてるのを聴けるのは今だけだよ」

 みそらはあっさりと三谷の意見を却下した。――なんだか目の前がぱっとクリアになったような気分だ。三谷は自分がすんなりと納得したのを自覚した。

「……ああ、そっか」

「そうだよー。わたしは今聴けるものが聴きたいんですよ」

 みそらがゆったりと言った。椅子に体を預けている様子はとてもリラックスしているように見えて、ふと時間の移ろいのようなものを感じた。

 みそらがゆっくりと呼吸をするたびに、確実に時間が進んでいるのを感じる。今の季節は秋で、つい先日までは夏で、これから冬が来て春を迎える――そういったことをふいに目の前に提示されたような気分だった。

 スマホが着信を知らせて光るのが視界の片隅に見えた。手を伸ばすと、いつのまにかチャットの通知が増えている。指で軽く触れると、ぱらぱらと通知が広がった。

『後期始まったけどめっちゃだるい』『夏休み暇すぎて早く終われって言ってたくせに。笑』『そういえば先輩にくっついて行ったOB訪問めっちゃおもしろかった』『こないだ言ってたやつ?』『そうそう、学祭実行委員のおこぼれ』

 高校の時のグループチャットは今でも健在で、セミナーやインターン情報など、自分の学校にいただけでは手に入らない情報が流れてくるので重宝している。連続して吹き出しが増えているのは、みんなちょうど講義が終わったくらいだからだろう。

「……いつがいい?」

 気づけばそう言っていた。ぱっとみそらの表情が明るくなる。

「やったーありがとう!」

「急ぐ?」

「というわけではないけど、火曜のレッスンの前に聴けると嬉しい」

 火曜は彼女の副科ピアノのレッスン日だ。参考にするからそれまでにということなのだろう。

「明日は?」

「ええと、五限なら」

「あ、俺もだ」

「ほんと?」

 頷きながら、画面はもうスケジュールから学内の練習棟の予約システムに移った。無意識にグランドピアノの部屋を探すと、二箇所だけ空きが見つかる。三谷がまじまじとそれを見つめてしまうと、みそらが軽く首を傾げた。

「空いてない?」

「あ、いや」

 止まっていた手をまた動かす。この学校は土地柄、一人暮らしが多いのだが、それでも練習室の競争率は高いはずだった。よく空いてたものだと感心してしまう。

「ちょうど五限の時間も空いてる」

「よかった。週末って使わない人多かったっけ」

「どうだろ……山岡の引きの強さじゃないかって気がしてきた」

 みそらはきょとんとしていたけれど、口に出せばそうだろうという思いが強くなった。友だちが弾いてるのを聴けるのは今だけ――そういう心持ちでいる生徒には、音楽の神様が手を差し伸べるのではないだろうか。

 片方の部屋をタップし、手早く予約を進める。

「キャプチャ送ったよ」

「ありがとう」

 笑顔でそう言うみそらの頬が、オレンジ色にほのかに染まっている。夕暮れの時間を吸い込んでいるみたいだ、と思いながら、三谷はカレンダーアプリを立ち上げ、明日の十七時に「練習・山岡」と打ち込んだ。

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