事例17 恐怖⑧

(──ここは──)


 ヨールが、ゆっくりと目を開ける。そこは、白い霧が立ち込める山道だった。ヨールは自分の居場所を確かめるために辺りを見回そうとして、ふと自分がどこにいるのか思い出す。


(あ、そうか。ここは、夢の……)


 そう。今ヨールが立っているのは、自身と同じ展望ラボの元被験者、ゲビドアの夢の中である。そして、そこに立ち込めている霧を見て、ヨールは少しずつどうして自分がここにいるのかも思い出していく。


(……そうだ。警察病院に霧が立ち込めて、怪物が現れて、それで、ゲビドアさんを確保して……。ボクは、タナリオさんに頼み込んだんだ。ここに、ボクを入れてくださいって。……それにしても……)


 ヨールは、改めて周囲を見回してみる。霧は現実でゲビドアが発生させたそれと同じくらい濃く、その濃さは足元の地面やその周辺がギリギリ確認できるぐらいである。一応木々の揺れる音や鳥の鳴き声など、自分が屋外にいることを証明する音は聞こえるのだが、そういった木や鳥の存在を目で見て確認することはできない。しかし、


(……こんなに何も見えないのに、山道だってことは何となくわかるんだよね)


 そう。本来であれば自分がどこか屋外にいることぐらいしかわからないような情報しか入ってきていないのに、既にヨールは自身のいる場所がどこなのか何となくわかっているのである。つまり、ここは──


「──ここは故郷の、すごく馴染み深い──いや、馴染み深い山道なんだ」



 深い霧の中、ヨールは1歩1歩ゆっくりと踏みしめつつ、山道の先へと進んでいく。時折道から逸れそうになりつつも、ヨールは何とか道を辿たどっていく。


(……それにしても、静かな場所だなあ)


 自身の足音を聞きながら、ヨールは思う。機械音けたたましい展望ラボや喧騒溢けんそうあふれるシグビッドに比べ、ここは静寂せいじゃくに包まれている。わずかに響く自然の音も自身の足音より遥かに小さく、前がまともに見えないにもかかわらず多少の安心感すらある。


「……ゲビドアさんは、こんなところで育ったんだなあ」


 誰もいないことで気がゆるみ、思わずヨールは独り言をこぼす。すると、


「……うん」


「──!?」


 突然声が聞こえ、ヨールはその声のした方へと振り向く。そこには、銀髪の坊主頭をした、ヨールよりも背の小さい少年が1人。一瞬ヨールはその少年が何者かと混乱するが、その右目に走ったノイズのような模様を見てその正体を察する。


「アナタは──ゲビドアさん?」


 その少年は、ヨールの問いかけに対し答えない。しかし、ヨールはこの少年がゲビドアであると断定し、彼に問いかける。


「……ここは、ゲビドアさんの故郷ですね」


「……うん」


「しかも、この場所が夢に刻まれてるってことは、きっとここにアナタのトラウマがある。違いますか?」


「……わ、わかんない」


 少年が必死に首を横に振る。それでも、ヨールは心の中で、きっとそうなのだろうという仮定をする。そして、ヨールは再び歩き始める。足音から、少年もヨールの後に続いているのがわかる。


「ゲビドアさん。もう1つ、質問させてください」


「……なに?」


「アナタの夢は、何ですか?」


「ゆめ? ……そ、そんなの、わかんないよ」


 やや怯えた様子で少年が答える。その答えに、ヨールは歩みを止めずに考える。


(やっぱり、この夢の世界から読みとらなきゃダメみたいだ。でも、まだトラウマらしいトラウマは見当たらない。ザニアさんの時みたいな情報も大してないし、この霧だけがゲビドアさんを夢追人ドリーマーにした原因とは考えにくいし……)


 そんな時だった。突然、ヨールの背後の足音が止んだのは。ヨールはすぐにそれに気がつき、立ち止まって少年に振り返る。


「ゲビドアさん? どうし──」


「やだ」


「え?」


「やだ。こ、このさきは、やだ……」


 その様子を見て、ヨールは進行方向に向き直って聞き耳を立てる。相変わらず聞こえるのは自然の音だけで、他は何も──


(──いや。聞こえる。かすかにだけど、これは……足音?)


 遠くから、ゆっくりでやや不規則な足音が聞こえてくる。その足音から想像できる足運びは、千鳥足というよりかは、まるで足に不自由があるかのようだった。そして、それが少しずつヨールたちに近づいてくる。


「……ゲビドアさん。心当たりがあるんですね? この足音の主に」


「う、うう、いやだ。こないで、ゆ、ゆるして……」


 少年はその場にしゃがみ込んでうずくまり、ガクガクと震えている。それを見て、ヨールはこの足音の主こそゲビドアのトラウマだと確信する。


「……少し見てきます。ここで待っていてくださいね」


 ヨールが、決心してシャボン玉を展開しようとする。しかし、直前に少年が彼の服のすそを掴み、思わずヨールは彼を見る──その顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「いや、いやだああっ! いかないで、おとうさん、やだあっ」


「……お、お父さん?」


「もう、もういっちゃやだ! ボクを、お、おいてかないでえっ…!」


 ヨールが少年の言葉に混乱していると、ヨールは前方に何者かの気配を感じる。慌てて振り向くと、不規則な足音はいつの間にかすぐ近くまで近づいており、やがてすぐに霧の中からその主が現れる──それは、猟銃をかまえて身体の腐敗した、ゾンビだった。


「──! ゲビドアさん!」


 ヨールは瞬時にシャボン玉を展開し、自身と少年を包み込む。しかし、既に猟銃から放たれていた弾丸はシャボン玉が展開されるより前に内側に入っており、少年をかばったヨールのほほをかすめる。


(あれは、警察病院の時ゲビドアさんを襲った具現化した恐怖! つまり、このゾンビはゲビドアさんの──)


「うわああん! ごめんなさい! ごめんなさい! おとうさあん!」


 シャボン玉の中で少年が泣きじゃくる。ヨールはその様子を見て、ゾンビの正体に思い至る。


「ゲビドアさん、教えてください! アナタが子供の頃、あのゾンビに──に何があったんですか!」


 その言葉に、少年の嗚咽おえつが止まる。直後、突如として少年の身体から光があふれ出し、シャボン玉の中の2人を包み込む。そして、ヨールの視界に映像が映し出される。その映像は、少年、いやゲビドアの──



『ゲビドアあ、帰ったぞお』


『おかえりなさい! おとうさん!』


 辺境の、小さな町。そこの更に奥まった山中に構えた小屋に、幼少期のゲビドアとその父親は暮らしていた。父親は猟師をしており、山に入っては何かしらの獲物をかついで帰ってきた。


『ほおら見ろ! 今日の獲物はでっかいぞお』


 父親が、小屋中央のテーブルに、シカにもヤギにも似た草食動物の一種であるシャモアの巨大な死体をドサッと置いた。ゲビドアは目を輝かせてそのシャモアを見た。


『うわあ、ほんとだ! おとうさんすごーい!』


『はっはっは! そうだぞお、オマエの父ちゃんはすっごいんだあ』


 父親が豪快に笑い、ゲビドアは一層憧れの目を彼に向けた。事実、ゲビドアの父親は地元でも有名な猟師であり、定期的に害獣の駆除もこなしていたため、住民からの信頼も厚かった。


 ある日、彼らの家に近所の老婦がやってきた。老婦は、不安げな様子で語りだした。


『なあ、聞いておくれ。近頃、山の方からすごいうなり声が聞こえるんだ。きっと大きな獣だと思うんだけど、そんなのが町に降りてきたらと思うと心配でねえ』


『がっはっは! それでうちに来たのかあ。いいぞお、合点承知だ! この凄腕ハンターにお任せなさい!』


 そう言って、ゲビドアの父親はその分厚い胸板を自信たっぷりに叩いた。老婦はほっとした様子で帰り、父親は早速支度を始めた。しかし、一連のやり取りをテーブルの影から見ていたゲビドアは、先ほどの老婦よりも不安げな様子で父親に駆け寄った。


『ねえ、おとうさん。だいじょうぶなの? すごくこわいけものなんだよね?』


『なあんだ、父ちゃんの腕が不安なのかあ? 大丈夫、父ちゃんは最強なんだぞお! はっはっは!』


『うう……でも、しんぱいだよお』


 なおも曇った表情を見せるゲビドアを見て、父親はゲビドアの前でしゃがみ込み、彼の頭を撫でた。


『……オマエは優しいなあ。でも、父ちゃんも町のみんなを、そして何よりオマエを守らなきゃいけないんだ。大人は子供を、強いやつは弱いやつを守るものだからなあ』


『おとうさん……』


『でも、大丈夫。オレは、オマエがこの家を旅立つその時まで、死んだ母ちゃんの分までずっと、オマエを守ってやるんだ。だから、また今日も帰ってきてやるからなあ。良い子で待ってるんだぞお』


 その言葉を聞いて、ゲビドアの表情が少し晴れた。それを見た父親もまた満面の笑みを浮かべ、支度に戻ってやがて家を出た。ゲビドアは、外の霧の中に消えていく父親の背中を見送った。



 その日、ゲビドアの父親は帰ってこなかった。それは、ゲビドアの人生の中で初めての事態だった。父親が作り置きしておいた料理を食べたために空腹ではなかったものの、ゲビドアはとてつもない不安感に襲われた。しかし、父親が返ってくると約束したのだからと、ゲビドアはただ彼の帰りを待っていた。その晩、ゲビドアは一睡いっすいもできなかった。


 翌日、ゲビドアはしびれを切らして、父親を捜しに行こうと考えた。幼いために大した支度もできなかったが、それでも彼なりの重装備を用意し、玄関の戸を開けた。


 しかし、彼は一歩も家を出ることができなかった。目の前に立ち込める霧が、前日のそれとは比べ物にならないほど濃くなっていたからである。彼は、その向こうに何がいるのか想像してしまった。大きな牙をたずさえた獣、大きな目をぎょろつかせた怪物、足だけで自分の身長の何倍もあるであろう巨人。彼は、そういった恐ろしい想像に打ち勝つことができず、やがて戸を閉めて家に戻った。


 更に翌日、朝になって、ゲビドアの家の戸が叩かれた。恐る恐るゲビドアが戸を開けると、相変わらずの濃霧の中に、地元の警官が立っていた。警官は慌てた様子でゲビドアに語りかけた。


『ゲビドアくん! 無事だったのか!』


『え、あ、あの。ど、どうし──』


『とにかく、すぐに来るんだ! ほら、乗って!』


 そう言って、警官はゲビドアを半ば強引に車に乗せ、山道を走行した。進むにつれて、少しづつ霧が薄くなっていった。しばらくして警官は停車してゲビドアを降ろし、少し先の人だかりができた場所まで連れて行った。ゲビドアの額に嫌な汗がにじんだ。


『そら、上げるぞ! 1、2!』


『……あ……』


 何人かが、誰かの乗った担架を持ち上げていた。


 その担架の上の人物は筋骨隆々で、たくましかった。


 でも、担架からこぼれた腕はだらんと垂れ下がっており、まったく力が入っていないようだった。


 ゲビドアは、顔を見なくても、その人物が誰なのかわかってしまった。


『あ……』


 しかし、担架が救急車の中に運ばれる瞬間、しっかりとその顔が見えてしまった。


 その顔は、まさしく──


『──ああああああ!!』


──土気色で、血まみれの、ゲビドアの父親の顔だった。


『ああ、ああああ、あああ──』


 ゲビドアの泣き声とも叫び声ともつかない声は、心配した周囲の大人が彼を家に連れて帰るまで──否、連れ帰った後も、1日中続いた。



「……ゲビドア、さん……」


 ヨールが呆然と映像を見ていると、唐突に視界内にノイズが走り、やがて元の山道の光景に戻っていく。そして、目の前でうずくまる少年──幼少期のゲビドアと、シャボン玉の向こうで膜を引っ搔いているゾンビ──ゲビドアの父親が視界に映る。ヨールはしばらく無言で、2人の様子を見つめる。


「うう、おとうさん、ゆるしてえ……」


 そして、ヨールはゲビドアに近づき、目線が同じ高さになるくらいまでしゃがむ。周りが見えなくなるくらい泣きじゃくっていたゲビドアも、ヨールに気づき顔を上げる。


「ゲビドアさん。つらい過去を思い出させてしまってごめんなさい」


「……うう、ひぐ……」


「でも、これで1つわかりました。アナタのお父さんは、本当はきっと──」


 ヨールが、突然シャボン玉を解除する。父親のゾンビが再び猟銃を構え、ゲビドアは思わず逃げようとする。しかし、それより先に猟銃の引き金が引かれ、弾丸がゲビドア目掛けて飛んでいき──


「──ッ!?」


──そのまま、彼のに命中する。


「アナタを、守ろうとしたんです」


 ゲビドアが驚いて振り返ると、そこにはかつてゲビドアが想像したような怪物がいた。弾丸は怪物の巨大な目玉を見事貫き、怪物はおぞましい悲鳴を上げながらそのまま倒れた。


「……おとう、さん……」


 ゲビドアが呆気に取られていると、突然彼を温かいものが包む。それは、ゲビドアを抱きしめたゾンビの──否、最早全く腐ってなどいない、彼の父親の腕だった。ゲビドアはしばらく反応できなかったが、やがてまた大粒の涙をこぼし、大きな声で泣きはじめる。しかし、その泣き方は先ほどまでのそれとは全く違う。


「……うあ、あああ……っ」


 ゲビドアと父親の間に、言葉らしい言葉はない。しかし、それでも2人は互いを強く抱きしめあい、ただただ泣き続ける。まるで、過ぎ去った空っぽの日々を埋めるかのように。そこには、過去のトラウマも、罪悪感も、恐怖も、最早なかった。

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