事例9 世迷い言①
リュビカ特殊刑務所。そこは、
そのリュビカが壊滅することになる当日。女子収容棟3階の廊下にて、1人の刑務官が歩いていた。この刑務所に配属されて初めて囚人と対面する彼女は、抑えようとしつつもやはり身体がこわばってしまっている。何より、今から彼女が会う相手は、裏社会にその名を
やがて、刑務官が問題の囚人のいる独房の前に立つ。彼女は1回深呼吸した後、鉄格子の暗闇の向こうにいる囚人に向かって、大声で呼びかける。
「252番! 立て! オマエ宛の手紙だ!」
その声に反応し、素早く囚人の人影が立ち上がる。恐る恐る刑務官の方に近づき、少しずつその顔が刑務官にも見えるようになる。その顔は明らかに怯えきっており、また身体は小刻みに震えている。その、大物という評判にあまりにも反する
「あ、あの。ありがとうございます、けけ、刑務官どのっ!」
そして、囚人番号252番──キエラが、あまりにも情けなくカクカクとした動きで、刑務官から渡された手紙を受け取る。この時、刑務官はふとキエラの額を見て──そこにある、3つ目の目玉と目が合う。
「………」
「……あ、あああの、その。し、失礼しますっ!」
キエラは大きく、そして勢い良くお辞儀した後、小走りで独房の奥へと逃げ去る。呆気に取られていた刑務官は、少しだけため息をついてその場から離れた。
*
特殊刑務所の正門。そこには、3人の警備員が立っている。また、警備員の横には守衛詰所があり、そこにも1人の守衛がいる。彼らは、脱獄囚や侵入者を許さないためにここに配置されている。
「……ん?」
そこに、1人の男が現れる。その男は、暗い緑色の髪を耳の前に垂らしており、緑色のマスクで口を覆っている。そして、その目もまた緑色である──白目に当たる部分が緑色で、そこには信号機のように等間隔で、3つの白い黒目が並んでいる。このため、男がどこを見ているのか守衛にはわからない。だが、男が無言で目の前を通り抜けようとしたため、守衛が声をかける。
「あー、ちょっと。お兄さん、こっちこっち」
「……何か?」
「いや、何か、じゃなくて。お兄さん、ご用件は?」
「……ご用件……」
男は、目の前で顎に手を当てて考える素振りをしてみせる。守衛は不審に思い、正門に立つ警備員にアイコンタクトをとる。
「ああ、思い出した」
「はい、で、どんな──」
「豚の脳みそを……んん、食べたことはあるか?」
「……はい?」
用件を訊いたのにいきなり脳みその話をされた守衛が、怪訝な表情をとる。緑の男は守衛の言葉に反応せず、話を続ける。
「脳みそ。どこの国の料理だったかは忘れたが、昔食べたことがある。アレは……珍味だった。うん。今も忘れられない味だ」
「は、はあ。で、どういったご用で──」
「確か、豚の脳みそは『健脳食』らしく、脳に良いらしい。んん……脳を食べたら脳が活性化される、という理屈は、正直良くわからないが」
「いや、あの……だからね? ご用件を仰っていただけないと──」
男が、ポンと手のひらの上に握りこぶしを置いてそういえばのジェスチャーをしてみせる。守衛の眉間に深めの皺が寄る。
「先ほど……アレを『珍味だった』と言ったな? あの言葉は、んん、勿論良い意味でもあるが、どちらかというと──」
「いい加減にしてくださいよ! はい、用件! どうぞ!」
男が、まるで自分の方が正しいと言わんばかりに驚いた表情を見せる。守衛はイライラして貧乏ゆすりしながら、男を睨み付ける。男は、再び顎に手を当てて考えた後、言う。
「……面会に来た。相手の名前は──キエラ、と言う」
*
独房の隅で、キエラはうずくまりながら封筒を見つめている。それはハートがあしらわれた可愛らしいデザインの封筒であり、開けるとこれまたハートに溢れた
『キエラへ。アナタが逮捕されてからもう半年が経ちましたね。あの時はびっくりしたけど、面会したときはもっとびっくりしました。だって、キエラったら嬉しそうなんだもの。何があったのかは知りませんが、とにかくアナタが幸せそうでほんのちょっとだけ安心した覚えがあります。今は、どんな感じなのかな? 今度また面会に行きます。母より』
キエラは、数分間無言で手紙の内容を
「う、嘘。なんで、こ、ここがわかっ……!」
その顔は恐怖一色であり、冷や汗もダラダラと溢れだしている。身体は先ほどの比でないほどガクガクと震えており、立っていることもできない。
キエラが怯えている理由は、2つ。1つは、既に自分の母親は死んでいることを知っているから。もう1つは──その、母親のものではない字体に見覚えがあるからである。
*
「……すいませんが、お兄さん。アナタ、面会の許可は取ってます?」
「……許可?」
男が、まるで初めて聞いた単語かのようにそれを復唱する。守衛は、大きくため息をついた後、男に向き直る。
「その、良いですか? ここは刑務所で、面会には刑務官の許可が要るんです。見たところ……お兄さんどころか、誰もその囚人の面会を申請してないみたいですが」
「……んんん」
詰所のコンピューターの画面を見ながら守衛が説明したが、男は困った様子でしばらく考えている。
(全く、何だコイツ。不審人物ではあるが、正直何が目的なのかよくわからん。ただちょっかいを出しに来ただけなら痛い目見せてやりたいが──)
「ならば」
「──ん?」
「ならば、こうしよう。今からする話が面白かったら……んん、通してくれないか」
男が、真剣な眼差しでよくわからないことを提案するのを見て、守衛が更に困惑する。守衛の貧乏ゆすりがスピードアップする。
「……はい? いやね、だから面会には刑務官の許可が──」
「月は」
「へ?」
男の3つの黒目が、少し大きくなる。
「月は、実はドアストッパーの兄弟なのだ。そのランゲルハンス島から噴き出す多量の貯水タンクは、今日も今日とてミルクならざるミルクを斬首している。その耳から這いずる
「あー、もう結構。もう結構ですから! はい、通るなら勝手に通って! はい、どうぞ!」
守衛が、限界に達したのか適当な対応を取る。それを聞いた男は「んん……よろしい」と言った後、刑務所の方へとゆっくりと歩き出す。その目がどこを見ているのか、守衛は最後までわからなかった。
「全く、とんだスパークリングだよ……」
守衛はしばらくため息をつき、その後備え付けの内線電話の受話器を取って、愚痴でもこぼすような口調で連絡する。
「あ、もしもし。こちら、声門破裂音の守衛詰所ですけど。1人の男が囚人番号252番の──」
*
「どうした、252番!」
キエラの悲鳴を聞いて、先ほどの刑務官が駆けつける。キエラは独房の隅で腰を抜かしている。
「……た、助け、助けてくだ、ああ……」
あまりの恐怖に、キエラはまともに言葉を発することができない。それを聞いた刑務官は、ため息をついてキエラを見る。
「全く……252番、そんな
「……え?」
「そもそも、そんなに怯えていては縛れるものも縛れないだろう? それに、ゴムの木だってそんなにクンショウモじゃないんだから、ワレワレはしっかりとした入道雲でないといけないんだ。わかるか?」
キエラの目が、いよいよ限界と言えるほど怯えと恐怖に染まっていく。
「……な、何を、言って」
「だから、収束半径のパンダがストリーミングだと言っているだろう? まさかここまで収束半径の父上が収束半径ぶっているとは思わなかった、一体何が収束半径でそんな収束半径がまた収束半径な収束半径を収束半径収束半径収束半径……」
「……っ!」
刑務官が、まるでそれが正しいかのように、普通の表情と声色でわけのわからないことを口にしている。更に、気がつけば他の多数の独房からも──
「──コンクリート促進! コンクリート促進! コンクリート促進! コンクリート──」
「──ああーッ! わかったぞ、人参こそ最良のアバンギャルドなんだ! 和平ィーッ──」
「──トーテムさん? ボクちんに検索ゆらぎの呪詛マックをハラセーラーハラセーラー。あむ──」
──同じような、わけのわからない言葉が無数に聞こえてきている。それを聞いて、キエラの脳裏にある考えが浮かぶ。
(まさか……の、能力!? い、いやでも、ここでは
彼女の思考の通り、ここの独房には1つずつAREDが設置されている。このAREDは、
つまり、逆に言うと──対応しない
「グ、ウウ……」
「……!?」
キエラが思考を巡らせているのも束の間、目の前の刑務官が頭を押さえて苦しみだす。
「キ、キリニ値が象くて真っ黄色な
「ど、どうし──」
「……アア偶像するロウ歴する
そして、次の瞬間。
「ひっ……!」
刑務官の頭が、内側から破裂する。
「い──嫌ああああっ!!」
キエラが絶叫し、独房の奥へと後退りする。そして、すぐに気がつく。先ほどまでうるさいほど響いていた他の独房からの声が、突然全く聞こえなくなっていることに。
「……ま、まさ、か……!」
キエラが静寂に気づいた直後、それを破るようにコツコツと足音が聞こえ始める。キエラは思わず口を手で押さえる。しかし、その足音はゆっくりと、そして確実にキエラの方に近づいてくる。やがて、その足音の主が、キエラの独房の鉄格子の向こうに現れる。
「……んん、久しぶりだな、キエラ」
「あ、あな、アナタ、は──」
キエラが、息を飲む。
「──アユゴ、さん」
その男──アユゴが、床に倒れる刑務官の遺体から鍵を奪う。そして、周りの凄惨な光景などまるで目に入っていないかのような冷静な動きで鍵を開け、キエラの独房に足を踏み入れる。
「ひ……」
「では、行くぞ。……んん、不安か? ならば、このアユゴが食べた豚の脳みその話でもしてやろう。どれ、先ほどちょっとばかり練習を──」
アユゴがキエラの腕を掴み、ゆっくりと引っ張っていく。キエラに最早抵抗する勇気はなく、ただ引かれるままにアユゴについていった──道中あちこちに転がっている、大量の刑務官や囚人、そして守衛の首無し死体を見ながら。
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