事例6 クモ屋②

「い、いたたた……」


 タナリオとマッシュボブの男が対峙している頃、スリップした敵の車の中でヨールが立ち上がる。先ほどの衝突の際、小さくさせられたままマッシュボブの男の手から離れ、そのままの勢いで運転席のシートの上に転がってしまったのだ。そして、その男が車から降りた後、前の方の座席で横になったポーズで元の大きさに戻され、今に至る。


「と、取り敢えず、ここから早く出ないとな」


 ゆっくりと身体を起こし、ヨールは扉を開けて車の外に出る。そして、車から上がる煙に咳き込みながらもフラフラと車から離れ、


「オイ、待てやテメェ」


「──!」


 ヨールが男の声に振り返ろうとしたその時、足に激痛が走る。


「ぐッ……!」


 その痛みに耐えきれず、ヨールがその場にしゃがみこむ。彼の背後に立っていたアシンメトリーヘアの男が、その四白眼を一直線にヨールの方へと向けている。男の額や首からは、ドクドクと滝のように血が滴り落ちている。


「オレたちのターゲットァテメェだッつーのをまァだわかッてねェみてェだなァ? ま、平和ボケした餓鬼にゃ難しい問題だッたかもなァ」


 男が、少しずつヨールの方へと近づいてくる。見れば、その顔の口角は左右に裂けており、頬の裂けた部分が縫われている。


(こ、この人も、夢追人ドリーマー……!)


 ヨールの瞳に男が映る。顔が痛みに歪んでいるためか、ヨールの目は険しく男を睨み付けているように見える。


「ケケケケ、良いねェその目。オレ様という強者を睨むしかできねェ哀れな弱者の目ッてヤツだなァ。エェ?」


「………」


「ケケッ、正直オレァ今猛烈に腹ァ立ってンだよ。なァ? テメェのお友達にダメージ負わされちまッてよォ、矜持きょうじッつーもンが傷ついちまうよなァ?」


 ヨールが、黙って男を見つめている。その間も男はゆっくりと距離を詰めていき、やがて男がヨールの能力の有効範囲へと1歩踏み入る。


(……よし)


 その瞬間、ヨールが男を大きなシャボン玉で包み込む。男が歩みを止め、キョロキョロとまるで美術館の絵画でも見るかのようにシャボン玉を眺め始める。それを尻目に、ヨールは撃たれた足を引きずりながら車から離れていく。


(これで、この人の動きは止められる。だから、急いでこの場から離れて、連絡を──)


 そう思った刹那、ヨールの肩に焼け焦げるように小さな穴が空く。思わずヨールは叫び、その場に倒れ込んで痛みにもだえる。そのあまりの痛みに、ヨールは男を包んでいたシャボン玉を解除してしまう。


「シャボン玉ッてよォ、透明だよなァ」


「──ッ!」


 コツ、コツと、1歩1歩自分に近づいてくる足音をヨールは聞く。同時に聞こえるその声に、動揺の色は微塵も感じられない。


「透明ッてこたァ、中が見えるッてことよなァ。中が見えるッてこたァ、中からの光を透過してるッてことよなァ」


 その足音は次第に近づいていき、やがて止む。そして、ヨールの焼けた方の肩を、男の靴が踏みつける。激痛が、電流のように再びヨールの肉体を駆け巡る。


「ぐァァーーーーッ!」


「だからよォ、いくら透明なシャボン玉でオレを包ンだとしても……オレの光線レイァ何の問題もなくそれを貫通するわけだ。テメェみてェな餓鬼にでも解ける簡単な論理だよなァ~~?」


「ああッ、やめ──ぐあああッ!」


「テメェも少しゃ考えろよ。なァ? オレたちゃアテメェを誘拐しに来たんだぜ? テメェの能力なんぞとッくに知ッとるわ、ボケ」


 ヨールがまぶたと口を大きく開き、痛みに悶えている。男はそれを侮蔑ぶべつの目で見ながら、何度も何度も執拗にヨールの焼け焦げた肩を踏みつける。


「痛ェかァ? なァ? でもよォ? 。オイ? 聞いてンのかァ~?」


「ぐッ…! が、がァッ! が、ガイリ……? 誰……うううッ!」


「そォだよ、ガイリだよ。オレも、マローも、別に大した怪我じゃア、なかッたが、アイツァ、アイツだけァ、大ダメージを負ッたんだよ。テメェも、それと、同じくらい、いや、その1000倍ァ、痛め付けてやるよォ!」


 男は、思い切り振り上げた足でヨールの身体を蹴飛ばそうとする。しかし、その寸前で男の渾身の蹴りは突然ストップする。男はゆっくりと自分の足をどかしてみる──男の足とヨールの間には、まるでヨールを守るクッションのようにシャボン玉が浮かんでいた。


「──ほォ~~~~~~~~? なァ~~~~~~~~るほどねェ?」


 男が天を仰ぎ、突然大声で笑いだす。ヨールは、肩と足の痛みでそれどころではない。


「……ふゥ~~。いやァ、こりゃア相済あいすまねェなァ。テメェが自分を防御してなきゃア、オレ様ァすッかり当初の目的ッつーのを忘れちまッてたよ」


 男はしゃがみ込み、うずくまるヨールの頭を撫でる。ヨールが一瞬困惑で思考が停止しているのを尻目に、男は立ち上がって──ヨールのみぞおちに強烈なひと蹴りを加える。


「かはッ──」


「オレたちゃア、テメェを誘拐しなきゃアいけなかッたんだわ」


 ヨールの意識が、霧のように薄れていく。そうして暴れなくなったヨールの身体を、男は易々やすやすと持ち上げて肩に抱える。


「さァて、さッさと積んじまわねェ、と──」


 男が、彼らの赤い車があった方を見る。そこには既に何もなく、ただ煙が充満しているだけだった。それを見て、男は察する。


「助太刀に行ッたか。ま、良いンじゃねェの」


 男はヨールを雑に地面へと下ろす。そして、自身も地面に腰を下ろし、胸ポケットから煙草の箱を取り出し、その1本を咥える。


なら余裕で勝てンだろ」



「──アンタも、ここでおしまいだねえ!」


 男は、笑いながら手を振り上げる。そして、その手をタナリオのいる地面目掛けて振り下ろし──ぺしんという音と共に、地面に叩きつける。しかし、


「……ン?」


 男が、その手応えに違和感を覚える。ゆっくりと叩きつけた手を地面から離すと、手の影から小さい何かが猛スピードで飛び出していく。


「なッ──」


 それは──男の上の車とは別の車で逃げていくタナリオだった。


(あ、危なかった……!)


 タナリオは、かなり上半分が潰れてしまった青いワゴン車の中で必死にハンドルを切っている。そのアクセルは全開だが、メーターが破損してしまったために今正確にはどれくらいのスピードなのかわからない。


咄嗟とっさに出したのは正解だった。取り敢えず、これで多少は時間が稼げるはず──)


 しかし、そう思った刹那せつな、突然車外の景色が小さく──否、タナリオの車そのものが大きくなっていく。車道横の崖に衝突しそうになったので慌ててタナリオはブレーキを踏み込み、間一髪で停止する。


(な、何故今解除を──)


 ふと、タナリオがバックミラーの向こうに人影を見つける。その人影の正体は、少女だった。黒い長髪を顔の前にまで垂らしており、その腕は今にも折れそうなほど細い。


「き、キミ! こんなところで何突っ立って──!?」


 反射的に叫んだ直後、タナリオは気がつく。その少女は、車椅子に乗っているのである。


「ま、まさか……」


 その瞬間、少女の乗っている車椅子がどろどろに溶けていく。車椅子は少女を飲み込み、膨張し、やがて1つの、見覚えのある形状を取っていく。硬直しているタナリオの顔に、汗の雫が流れていく。そして、その車椅子だったものは、今や1つの車となった。そう、


「しまッ──」


「今だ、ガイリ! やれ!」


 マッシュボブの男の叫びと共に、赤い車が急発進する。思わずタナリオはギアチェンジしてアクセルを踏み込みながら全力でハンドルを切るが──タナリオのワゴン車に、容赦なく赤い車が突っ込む。凄まじい音と共に、ワゴン車の後部座席が亡きものになっていく。


「クソがッ!」


 タナリオは瞬時の判断で車を捨て去り、助手席側の扉を蹴り開けてそちらから車を飛び出す。直後、タナリオの背後でワゴン車がものの見事にぺしゃんこになる。そして、


「はい、チェックメイト」


「なッ──」


 出てきたタナリオを、マッシュボブの男が能力で小さくして手に握る。その力はあまりに強く、タナリオのあばら骨がミシミシと音を立てる。


「ぐふッ……!」


「いやあ、面倒なヤツだったよン、全く。……おおいガイリ~、そっちは大丈夫かい?」


 赤い車が、再び変形して車椅子と少女に変化する。ガイリと呼ばれたその少女は、車椅子をこいでゆっくりとマッシュボブの男に近づいていく。


「……うん。ワタシは、平気」


「おお~流石……と思ったけど、足がちょっと大丈夫じゃないねン」


 そう言って、マッシュボブの男は少女の足を見る。その足からは大量に出血しており、また少し変な方向に折れ曲がっているように見える。


「ま、アレだけの事故で良くこらえたよン。さあて、後はヘドルだけど……」


「おォい、終わッたかァ、オメェら」


 彼らとは反対側の車線から、ヘドルと呼ばれたアシンメトリーヘアの男が現れる。その肩には、気を失っているヨールを抱えている。


「……問題なさそうだねン」


「ま、こンな餓鬼ンちょなンぞにゃア、な」


 マッシュボブの男は微笑んだ後、青いワゴン車だったものに近づいていく。それはもう車という形を成しておらず、最早運転することは不可能だろうことがわかる。


「ひゃ~、それにしてもガイリは相変わらず無茶やるよねン。これじゃコイツもかわいそ──ん?」


 ふと、マッシュボブの男はスクラップの向こうに何かが落ちているのを見つける。男はそれに近づき、それがスマートフォンであることを知る。そのスマートフォンの画面には、「通話中 112」という文字列が表示されている。男の額に汗がにじむ。


「……おい、アンタ」


 マッシュボブの男が、手元の小さなタナリオを見る。タナリオは、先ほど強く握りしめられたためにぐったりしている。それを、男は左右に激しく振って目覚めさせる。


「おい! アンタ、アンタ一体何をした!」


「……は、ハハ。何って……通報したに、決まってるだろ、うが」


「……ッ! 馬鹿な、まさかあの一瞬で!?」


「そう、だ。オレも、いくら戦闘経験に、富んでいると言っても……ただの、いち夢追人ドリーマーに、過ぎない。だから、警察に通報するように頼んだが、まだ警察が来ないのを見るに……あの子は、失敗したんだろう。なら……オレが、やるしかない、だろう?」


「お、オマエ……ッ!」


 男が、再び強くタナリオを握りしめる。しかし、


「ぐふッ……ふ、フフ、もう、手遅れ、だ」


「──おい、マロー、アレ!」


 アシンメトリーヘアの男が指差した方向に、1人の男が立っている。その男──筋骨隆々の身体つき、ピチピチのスーツ、そしてピンク色のツインテールという異色な取り合わせの男が、合掌しながら告げる。


嗚呼ああ、人のマジカル☆愚昧ぐまいさは底が知れぬ……」


「うッ! 何だアイツ」


「早く逃げるぞ、オイ! オレが足止めを──」


 そう言いかけた後、アシンメトリーヘアの男が倒れる。驚いてもう1人の男が振り向くと、倒れた男の奥にもう1人のスーツの何者かが立っていた。その人物は包帯を頭に巻いており、顔面には3つの円が連なったような奇妙な紋様が複数刻まれている。


「う、嘘だろ!? クソ、ガイリ! 取り敢えずボクらだけでも逃──」


 その言葉を、いつの間にか背後に立っていたツインテール男が手刀でかき消す。直後、こちらもいつの間にか車に変形していた少女が、エンジン全開でその場を後にしようとする。しかし、ツインテール男はより速く動いて少女の前に立ち塞がる。少女は構わず男をこうとするが、


「……んー、マジカル☆ノーダメージ」


 男は後退りすらせずに、車となった少女を力づくで止めてしまう。そこに、先ほどアシンメトリーヘアの男の横に立っていた人物が近づいてくる。


「そちらは任せましたよ」


「承知しました。御任せをば」


 そう言って、その人物はマッシュボブの男が倒れているところに近づいてくる。そこには、能力が解除されて元の大きさに戻ったタナリオが、仰向けで倒れていた。その顔を、その人物が上から覗き込む。


「さて──久しぶりの再会を喜びたいところではありますが、取り敢えず。……大丈夫ですか? 


「……ええ、まあ、おかげさまで。


 その人物──アゲンバが、やや悪趣味な笑みを浮かべる。タナリオは、気まずさと全身の痛みに顔を歪めつつ、同じく笑顔を作った。

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