第4-19話 疲弊

 残火処理にはとてつもなく時間がかかった。

 現場保存を意識したがためにやたらめったら物をどかせない。

 普段ならガシガシ動かしてやるのだが、今回はそういうわけにいかない。後々の火災調査のためにできるだけありのままにしておく。


 結局、鎮火報を発するには、残火処理が始まってから二時間くらいかかった。

 このとき火災指令がかかってからは、約五時間ほどが経過していた。

疲労がピークに達し、動作のたびにいちいち声が漏れる。

 はしごを降りるだけで一段一段「よいしょ」と掛け声を漏らした。

 地上に降りた俺達に「おつかれさま」とすら労う者はいない。

 火災序盤の救出活動など、とうに忘れ去られている。みんな目の前の異常事態に夢中で、あの動きを賞賛するのは自分自身だけだった。映画のように拍手喝采などとは夢のまた夢のようだ。

 前線には虚無感だけが残った。

 そのままはしごの二段目に腰掛けうなだれる。

 防火衣のファスナーを開けっぴろげ、ヘルメットをガンっと逆向きに置いた。普段ならそんな煩雑な扱いは俺自身が許さない。でもその気持ちの緩みがどこか快く感じている自分もいた。

「おつかれした」

江尻の声がする。結局、労うのは自分自身だ。

「おう」

 そう返事をしても顔を上げないもんだから、わざと視界に入るようにスポーツドリンクを差し出された。

 それを受け取ってグビグビと一気に飲み干す。飲み干して終わって、顔をやっと外界に戻すと、さっきと変わらぬ姿勢のまま待っていた。

 その背後ではバタバタと走り回る大人達の姿が広がり、現場はまだ終わっていない。とはいえ、俺達の仕事は終わりだ。

 俺は重い腰を上げ、その待ち人の方へ向かった。

「ずっと待ってたのか?」

基本的には初見の人に対して、タメ口をきくことはない。

 それでも彼女の風貌と先ほどのやり取りがそうさせた。

「はい。活動おつかれさまでした。お時間よろしいでしょうか」

まるで先ほどとは違う。

「あぁ、さっきは悪かった」

悪い気はしなくて素直に言葉を発した。

「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」

その丁寧な雰囲気に彼女の素直さを感じた。かといって心から悪いと思っているわけではない。あの時の彼女にとっては、あれがやるべきことで、それに対する俺の反応すら理解していように思えた。良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐなんだろう。

「最初に建物に入った時の状況を教えてください」

「あぁ」

俺は空気呼吸器を下ろし、それを江尻に預けた。

「とりあえず、座っていい?」

 そう言って消防車の方に彼女を促した。


 消防車のステップに腰掛け、聴取が始まる。

 初めに彼女は、丁寧に警察手帳を見せて自己紹介をした。

「木浜警察署の丸山萌巡査です」

「木浜消防署敷島出張所の村下消防士長です。・・・消防手帳は・・・無いや」

少し場を崩そうとあえて無駄な報告をした。

 それが功を奏して聴取は柔らかに進んでいった。

 ひと通り重要な部分を話し終わった頃、わずかに一歩踏み込んでみた。

「適当なこと言えないだろうことは分かってる。やっぱりアレなのか?」

 聴取はあくまでも現場状況を説明しただけだから、そのワードが出たのは初めてだった。

 彼女は一瞬悩むように口を結んでこめかみを掻いた。

「村下士長になら・・・」

そう言った時だった。

「マルー!聴取終わったか?」

遠くの方にいた上官らしき警察官から声を掛けられた。

「はい!今戻ります!」

彼女はそう言って大きく手を挙げた。

「建物の外にガソリンのポリ缶が空の状態で二つ捨てられていました。おそらく、逃走したものと」

 小さくそう言い残して去っていった。


 俺達はそれ以上関与しない。はずである。

 火災調査は予防課が行う。プロの予防課としても、なまじ素人には手を出されたくないだろう。ましてやこんな社会性の強い事案であれば尚更だ。

 俺達は邪魔にならないよう消防車の脇でひっそりとだらけた。今度は周りが忙しく動いている。

 消防という仕事は何故かこうなのである。

 特に何もなく一日が過ぎる場合もあれば、こうして忙しなく一日が過ぎていく場合もある。

 もちろん今日は後者である。

 朝は石田という一人の消防士の進退に感情が支配されていたが、今では全く感じ得ない。

 立て続けに発生した災害により、昼食すら飛ばしている。今感じることは一つだった。

(腹減ったな)

 人が疲れるのは、体力的なものより精神的な部分の方が大きく左右すると思っている。

 恐怖を感じたと思えば、喜びを感じることがあり、わずかに怒りの感情が動き、悲しみを強く感じた。そういう心の揺さぶりがとても大きく作用する。

「腹減ったな」

そんなことを漏らしてもなんの解決にもならない。

「疲れましたね」

会話になっていない返事が返ってくる。

 それでも、それが自分だけではないという確認をするだけで、安心感を覚えた。こんなものに先輩も後輩もない。

 むしろそうやって消化することができるのは、経験の賜物かもしれない。


 わずかに現場の忙しなさが緩むと、鈴木隊長が消防車の方へ戻ってきた。

 できるだけ普段どおりに迎え入れる。

「お疲れした」

きっと人間関係からくる疲労のほうが体を動かすことよりもよっぽど疲れるのだろう。

 隊長の顔には怒りや苛立ちや喜びや安心感がくっきりと刻み込まれていた。

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