第4-15話 滲んだ手
どんなに重い歯車でも、一度回ってしまえばぐるぐると回転していく。
あれほど思い悩んだ救出方法も、一時は絶望を感じた状況も、最適な方法と前のめりな人間さえ揃えば容易に飛び越えることができる。
勢いよく飛び出した一人目の女性は、まるでジップラインでも楽しむかのように滑らかに降下していった。
そして地上では、こんな活動自体初めてにも関わらず、まるでテーマパークの十年選手のような動きを見せる。
彼女が地上に到着するや、素早くカラビナを外す。
簡易縛帯から離脱された誘導ロープはカラビナを介して斜めロープに掛けられる。
「引け!」
俺の合図で浅利が誘導ロープを地上五階まで引き戻す。
その頃には二人目の簡易縛帯は斜めロープに掛けられ、誘導ロープの到着とともに、窓枠へ振り出す。
そうして順々に救出が進んでいく。
もちろんその間も黒煙は上がり続けているから、緊張感が解けることはない。それでもトンネルの先に光が見えた活動は、俺達を前向きにさせた。
八人目が救出し終わったときだった。
ふと浅利の革手袋に目をやると、赤いものが滲んで見えた。
俺は何も言わずに、手をヒラッと左右に振って、浅利を見つめた。
おそらく、確保姿勢とは本来、ロープを体に巻きつけることで体表面の抵抗でブレーキをかけるものなのだが、緊張から手でロープをガチガチに握ったせいで無駄な摩擦を生じ革手袋が破れ、そこから出血したのだろう。
浅利は何も答えずに、ロックンロールの手をしてみせた。
俺は自らの背中を叩くことで、「上手く体表面の抵抗を使え」と合図した。
それに対して苦笑いで返したから、コイツも分かってる。
ここで「変わる」とは言いたくなかった。浅利がここまでやったのだからという想いもあったが、なにより流れを崩したくなかった。こういうのは微妙なズレで急に大崩れしたりする。
九人目の要救助者を誘導して引き上がってきた誘導ロープを繋ぎなおす。
無駄に変わらない流れは、安定感を見せた。
九人目、十人目をスムーズに運び、あと二人というところまできた。
残りの二人は最初に高所恐怖症だと告げてきた女性と、怪我をして自力では歩けなくなっている男性だった。
弱音を吐いたその女性は何がきっかけになったのか、「一人で行く」と言い出したのだ。
活動を目の当たりにすることで俺達に対する信頼を覚えたのか、それとも他の要救助者を見て勇気が湧いたのか。
いずれにせよスムーズな流れは十二人目まで続いた。
最後の一人は例の女性にした。
十一人目の救出が完了して、最後の一人に取り掛かろうとしたタイミングで、無線機をとった。
「最後の一人です」
送信先も言わなかったが、言われなくても鈴木隊長が返した。
「了解、気抜くなよ」
到着地点の近くで無線機のマイクを顔に近づける隊長の姿が見えた。その周りには江尻や石田が要救助者の誘導をしている。
この火災にあたってから、ずっと浅利と隊長としかコミュニケーションをとっていない。それでもさっき救命索発射銃を構える新川の隣に江尻の姿がチラッと見えたことで、あの突飛な案もヤツのものかもしれないと感じた。
準備が終わると、女性を窓枠へ座らせた。
「では、どうぞ」
そう言って振り出しを促すと、彼女は「ありがとう」と小さく言って勢いよく飛び出していった。その背中に「こちらこそ」と投げかけた声は彼女には聞こえなかっただろうが、決して彼女だけに向けた言葉ではない。この現場にいる全員に向かって言い放った言葉だった。
彼女が地上に着くと、そこにいた全員が手で頭上に大きな丸を作って合図した。
俺は指で無線機を叩いて浅利に催促した。
浅利は苦笑いで答えて無線機に手をかける。
「進入浅利から指揮隊長、救出完了、隊員二名脱出にかかります、どうぞ」
「指揮隊長了解」
指揮隊長も雰囲気を察している。余計なことは加えない。それは鈴木隊長に任せている。
「おつかれさん、最後まで気抜くなよ」
そんなどこにでもあるようなありきたりなセリフを言っていいのは、この現場で鈴木隊長だけだ。
いろんな人の協力でこのレスキューが成り立ったことは十分に理解しているが、何よりもあのとき、「レッドライン」という言葉で俺達を焚き付けなければ、こうはいかなかった。指揮隊長もそれを十分過ぎるほど理解している。
「先行けよ」
最後まで誘導ロープを離さなかった浅利から、誘導ロープを受け取った。
ついでにグーを構えて拳をぶつけた。
そのポージングは少しこそばゆい感じもするが、称賛するには何よりもの方法だった。
浅利が窓際に座る。
「降下はじめ」
自身の合図で浅利は空中に飛び出した。
最後の誘導は俺が持つ。
浅利が地上に到着すると、群衆に揉みくちゃにされているのが見えた。
俺は自分の縛帯を斜めロープに掛ける。
最後の一人は自分で誘導ロープを持って速度調整をしなければならない。
あえて無線機で送る。
「降下はじめ」
俺が地上に到着したときには、もうすでにみんなは離散しており、そこには敷島隊の隊員と要救助者がいただけだった。
それが妙にプロらしさを感じて心地よかった。
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