第4-11話 一方通行

「ムラ!」

その声は怒鳴るわけでもなく、この状況には似つかわしくない声だった。

 無線から響く言葉には呼び出し交信も「どうぞ」もなかった。まるで隣から声を掛けられたようで思わず窓から外を見た。

 敷島隊の消防車の上に鈴木隊長の姿が見えた。俺が顔を出すと、隊長は無線機のマイクを口元に当てた。

「退路はないぞ」

俺は眉を下げた。

「分かってます」

「これ以上は人数を投入できないぞ」

隊長の立場からしてリスクを増やすわけにはいかない。

「分かってます」

少し間を置いてから、言うかどうか悩むように返した。

「必ず戻れよ」

「分かってます。三階の輻射熱で引き綱が溶断します。はしごを外してください」


はしごを伸ばし始めたときから、退路のことがずっと心の中に張り付いていた。いや、消防士になってからずっとかもしれない。

 ー 退路のないレスキュー ー

 その状況を前にして、自分はどう動くのか。要救助者を前にして、確実な救出プランが立てられない状況で、どうするべきなのか。

 そんなものが非常識なのは分かっている。しかし、要救助者を認知しておきながら、傍観者になることはできるのか。

 誰かに問いたこともない。答えなどないことが分かっていたから。

 新人の頃からずっと「退路だけは確保しろ」と教わってきた。それでも一方通行の救助が間違っているとはどうしても思えなかった。そんななかでも、これまで確実に脳裏に武器を潜めながら戦ってきた。

 こんなにも不確かな動きをするのは初めてだった。

 それでもあの男は止めなかった。「戻れ」とは言わなかった。

 そして指揮隊長をはじめ他の隊員も「見捨てる」という決断はすることができなかった。

 無線が鈴木隊長からしか送られてこないということこそが、それを示していた。


 俺はしばらく、窓の内側を見つめた。

(ここで来るのか)

 俺はもう一度窓から顔を出して、今度は現場にいるみんなの顔をぐるっと一周見渡した。

 何度か小さく頷きながら、下唇を噛んだ。

 決断したように振り向くと、そこには少し距離を置いて浅利が突っ立っていた。

「大丈夫す。あんだけアホみたいに訓練やってきたんす。何かしら役に立ちます」

俺は思わず口結いを解いた。

「それ勇気付けてるつもりか?」

浅利はニカッと笑った。その浅利を抜き去り、俺は奥へ進んだ。すれ違いざまに浅利がもう一度声を掛けた。

「そうしないと、あんたが正しいって証明できないっす」

俺は振り返り強く頷いた。

「行くぞ」


「進入村下から指揮隊長、建物四階部分、現在延焼なし。排気排煙は外方向に向いており、内部の熱気と煙は少ない状態、なお当該階は事務所であり紙などの可燃物多数、延焼危険大、どうぞ」

俺の報告無線に続いて、鈴木隊長が無線機を取った。

「敷島小隊長から指揮隊長、現在当隊隊員二名が建物内へ進入中、よって建物内部への放水統制を願う、また排気活動に細心の注意を払われたし、建物五階部分に要救助者ある模様、各隊は救出活動の支援にあたられたい、どうぞ」

 隊長の声の奥が騒がしくなっている。現場の全員が動き出した。無線を介して、不確かながらも勇気が伝わってくる。

 俺と浅利はできるだけ空気呼吸器の面体を着けなかった。姿勢をかがめれば、ある程度の空気は吸える。こんなところで残圧を減らすわけにはいかない。

 階段に到着すると、そこには煙の通り道が出来上がっていた。熱気はあまり感じないが、明らかに黒煙が階段の中を登っていた。それでも外に上がっている煙に比べれば、勢いは弱い。

「ディー、ここだけは面体を着けよう」

浅利は何も言わずにサムズアップで返した。

 すぐに外せるように面体は被らない。顔に当てるだけにした。

 俺の動きに呼応して浅利も同じ動きをする。

 黒煙に巻かれた階段をできるだけ早く登った。

 階段を登りきって五階の踊り場に着くと、俺達は同時に面体を外した。残圧はほとんど使っていない。というより、万が一のために当てただけで、ほとんど一息で登りきった。

「進入村下から指揮隊長、現在五階到着、なお五階にあっては四階と同じ状況、どうぞ」

逐次報告する。それ自体は、何よりも地上で活動する隊員のためを思ってやっていた。もし自分が反対の立場だったら、無線が送られてこなくなると不安になる。ましてやこの状況、地上と距離が離れているために即応のRIT《消防隊員が倒れたときの救難活動》が叶わない。

 俺達は一目散に、浅利が要救助者を目視した位置を目指した。

「たぶんこの部屋です!」

「よし、開けるぞ!」

浅利が息を飲むのが分かった。

「消防隊です!」

掛け声とともにドアを開放した瞬間、そこにはまさかの光景が広がっていた。

 俺の掛け声に振り向いた顔がいくつもある。ざっと数えただけで十は超えた。

「しょうぼ・・・」

あとから部屋に入った浅利も一瞬停止した。

「消防隊です!助けに来ました!」

取り消すように声を重ねた。

 声こそ即座に出たが、打開策が瞬時に浮かばず、完全に脳が停止した。

 俺はたかをくくっていた。要救助者が多数とは考えていなかった。

 だから、最悪空気呼吸器に引っ掛けてきたロープを使って要救助者を背負ってロープ降下してしまえばいいと踏んでいた。

 人数を数えることも忘れ、無線報告も忘れ、ただ立ち尽くした。

「いまから皆さんを救出します」

こんなにもこの言葉に想いが乗らなかったのは初めてだった。

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