第4-8話 散らかった台所
俺達は病院からそのまま出張所へ帰った。
江尻は、帰りがけに柳小隊が送ってくれた。
現場ではまだ緑タグの傷病者の搬送が終わっていなかったが、それには他の救急隊があたることになり、「搬送完了の無線を送ったところで、指揮隊から引き揚げ下命がかかった。
帰りの消防車では、すでにいつものメンバーに戻っていた。
「頭蓋内出血か」
誰かのその言葉には反応したくなかった。
もっとも、石田が違和感に気付いたことや仲宗根の判断は称賛されるべきことである。それでもそれを称賛する気にはなれなかった。
それが大人だったらもう少し違う感情になっていたかも知れない。もちろん、傷病者の年齢や性別によって区別しているわけではないのだが、ここシキシマの隊長は、それ自体をご法度とはしなかった。感じたことを感じたままに。
それが何故なのかハッキリとした理由は俺達にも分からなかったが、それでも明らかに感情に蓋をした。
本当なら二人を褒めちぎってやりたい。だが同時に二人もそれを望んでいないことも分かっていた。
だからこそ俺はバカを演じてアホみたいな質問をした。
「また怒られますかね?」
本当はそんなこと気にも掛けたくなかった。
「どうかな?」
隊長の返事の調子からして、隊長も俺が演じていることを察している。
「今回は大丈夫じゃねぇか?指揮隊も把握してることだしよ」
確かにそのとおりだった。
傷病者を消防車で搬送したことは前例が無い。とはいえ、それを単独判断で行ったわけではない。指揮隊から下命されたわけではないが、指揮隊が把握している以上、実質的に指揮隊から許可を得たことになる。ましてやあの現場の雰囲気からして、「シキシマが勝手にやりました」とは言えないはずである。
何よりも、この俺達がもどかしさを感じていたその要因こそが最大の武器となる。それを批判することはさすがの上層部でもできないだろうと踏んでいた。
「そっすね」
自分で話を振ったくせに、相槌が適当になってしまった。
それでも一瞬でもみんなの脳内をリセットするきっかけにはなれた気がした。
そのあと消防車は、静かな空間を消防署まで運ぶことになった。
消防署に帰ると、時間は何事もなかったかのように流れる。
今日の朝、仕事に来てから身の回りではいろんな事が起きている。
石田の進退について、それぞれが一種諦めのような感情を抱き、災害現場では、決して諦めることのない活動をした。
一挙に様々な出来事が降りかかると、人は簡単に感情を壊す。それには強いも弱いもなく、それでも人知れず流した涙がわずかにもその感情を洗い流してくれた。
台所には作りかけのパスタが広がっている。
シンクには洗ってあるんだかないんだか分からない大鍋が無造作に置かれ、シンクにはまだお湯に浸されてない乾麺パスタがスポーツ新聞の上に置かれていた。
たらこスパゲッティの素は一袋で二人前なのに、それが五つも置かれている。それだけで本当は十人前なのに、乾麺パスタはゆうに十五人前を超えている。無駄なオリーブオイルとどこ産だか分からない岩塩で五人分はごまかすつもりだ。
そのぶったらがった台所を横目に一旦事務室に戻り椅子に座った。
こういうとき決まって不思議な感覚になる。なんとも言えない、強いて言うなら時間がゆっくりに感じる。
(疲れてんな)
誰にも話したことはないが、その感覚が一つのボーダーになっていた。
もう一度台所を横目に車庫へ向かう。
喫煙所に行くと、そこには先客がいた。
その先客は二本目のタバコに火をつけると、大きくため息とともに煙を吐き出した。
「切ないっすね、救命士なんて」
別にいまさら慰めの言葉が欲しいわけでもないだろうに、それでも物欲しげに言った。
「ナカソネ、お前が判断しなかったら、あの赤ん坊は死んでたよ。しかも急激に悪化してな」
救急のことが分かるわけではない。それでもそのくらいのことは分かる。
絵に書いたような相槌を打ったが、それが引っかかってるわけではないことも分かっていた。本人から言わせてやろうと思ってあえて的を外した。
「そりゃそうなんすけどね」
俺は待つように黙った。
少しの時間が流れ、今度は煙を纏わずに一息吐いた。
「あの子がそんな状態でも、何もしてやれないんです」
確かにそのとおりだ。俺達は搬送の優先順位をつけただけで、何を処置したわけではない。
ましてや、あの赤ん坊の違和感に気付いたのは石田だった。
「あの現場では、誰も判断がつかなかった。それは俺や渡部隊長も同じだ。環境要因を拾い上げることはできても、それに対して救急的判断はできない」
俺はあえて石田の名前を出さなかった。
「別にお前が救命士だから判断を求めてるわけじゃないよ。お前がこの中で、一番救急を知ってるから任せてるんだ。それだけは勘違いしないで欲しい」
何を言っても仲宗根に釈然としない気持ちが残るのは分かっていた。
「ヒーローはヒーローらしくあれよ」その言葉を投げようと思ったが、それはあまりにも酷な気がして俺はそれ以上何も言わずに立ち去った。
今度こそ台所へ向かおうと、廊下を歩いているときだった。
「ポー、ポー、ポー、、、火災指令、中高層建物、入電中」
この感覚があまり良い状態でないことには気付いていた。
たいがいこういう揺れ動いているときには大きな出来事が起きる。それが揺れ動いているからというわけではないだろうが、不思議とこういうときに災害は降り掛かってくる。それも難敵が。
それでもまさかこれが、テレビ報道されるようなものになるとは思いもしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます