第4-2話 勘違い
ポケットに両手を突っ込んだまま、訓練棟の階段を上がっていく。階段の幅は人一人が通れるほどの狭さだから、俺の後ろを石田が歩いた。
車庫で声を掛けられてから、「おう」とだけ返事をして、そこからずっと両手はポケットに突っ込んだままだ。肩をすくめるように歩いた。声は発していない。
彼らからしてみれば、経験豊富と言われることも少なくないが、いくら場数を踏んだとはいえ、こういう状況は経験がないし、ましてや前のめりになれるものではない。
唯一できたことといえば、一番後ろを行こうとしたことだけだ。
こういうとき、訓練棟の上によく来る。周囲から離れるので本音を喋りやすいというのが一番の理由だろうが、それはまるで恋する青年にとっての体育館裏のような存在なのだろう。実る恋もあれば散る恋もある。それと同じで、体育館裏で起きることは良い事ばかりではない。
訓練でも現場でも、言葉が出ないなんてことはなかった。俺は石田の顔を見ることすらできなかった。
「いつもここなんすね」
石田が発したその一言目で俺の希望的観測は打ち砕かれた。
石田は空気の読めない男ではない。つまり、この状況を理解している。
俺の中にわずかに残っていた希望は「なんでわざわざ訓練棟なのか」という質問だった。
そうではなく、それを受け入れている第一声は、すべてを諦めのどん底に突き落とした。
「フゥー」
俺はすべてを察しているかのようなため息を吐いた。
石田は悲しみながら笑っているようななんともいえない表情をしている。
普通なら、相手の気持ちを察する。この緊張が嫌なことは理解できるから、言い出しづらそうであれば、きっとこちらから質問して誘い出しているだろう。
それでも自分自身がそうしないことに驚いた。我ながら相当聞きたくない話らしい。
「自分、ここ、辞めようと思います」
石田はハッキリと俺の方を向いて言い放った。
「ここってのは、シキシマをか?」
石田はすでに笑っていた。その表情から悲しみは消えていた。
「いいえ、消防をです」
俺は止まった。一度止まった思考をもう一度動かしてみる。それでも動かなかった。
「消防を?」
俺は嫌な顔で聞き返した。
「はい」
やっと脳が回ってきた。
「え?なんで?消防を・・・」
戯けるような聞き方になった。
石田は悪そうな顔をした。
「ムラさん、自分がシキシマからの異動希望でも出すと思ってたんすよね?」
ニヤつきながら聞いてきた。
「は?どういうこと?」
「だから、消防を辞めますって言ってるんです!」
石田は強く答えた。
「なんで?」
俺も強く返した。
「自分、学校の先生になります!」
「はぁー?」
俺は一気に崩れた聞き方になった。
「なんで先生なんだ!」
「いや、学生の頃からなりたいと思ってたんですよ!学校の先生と消防士、どっちかになりたくてそれで消防を選んだんです」
「お、おぅ」
俺は圧倒された。
「それでなんで?」
「あなたや隊長を見ていたら、やっぱり先生になりたいって思ったんですよ」
石田の顔が急に深刻になった。それに合わせるかのように俺のトーンも下がった。
「やっぱり俺達のやり方じゃ、夢を与えられなかったか?」
石田が「ん?」と分からない表情を浮かべた。質問が抽象的だったと思って、ハッキリと聞いた。
「頑張っても報われないって感じたか?」
石田は納得したような顔になった。
「いいえ、そうじゃないです」
目を閉じたまま首を振って返した。
「シキシマにいたら出世できないって感じたか?」
「いいえ、それでもないです」
石田は試すように返事をする。
「コイツらとやってると危ないって感じたか?」
「そんなの今に始まったことじゃないじゃないですか」
やっと言う気になったらしい。
「あなた達の教育を見て、コレがやりたいって思いました」
訓練棟の上はよく風が吹く。
「お前・・・なんだそれ」
笑顔から溢れた涙が横にサラッと流れた。
その涙がどういう理由なのか自分でも分からなかった。
石田はまだ満面の笑みでいる。
「この仕事は大好きです。あなた達といると、力をもらえる。それも人を助けるなんていうとんでもない力。だから、手放すことが怖かった」
石田は俺の丸い背中を撫でるように言葉を発した。
「それだけじゃない。自分が辞めるなんて言ったら、またあなた達に迷惑をかける。いろんな噂話をしてあなた達を悪者にしようというヤツが現れるのなんて目に見えてます。それでも・・・それでも自分に嘘を付きたくなかった」
「なんだよそれ」
俺の声は言葉にならなかった。
「こんなクソみたいな社会で、こんな歪んだ世界で、それでも必死で戦ってるあなた達を見て、俺は自分のやりたいことをまっすぐやりたいって思いました」
石田はまだ真意を話していない。
「あなた達が救っているのは、要救助者だけじゃないんです。エジさんだってそう、佐原さんだってそう、浅利さんも、自分だってそうです。つまんないなって思ってる人生に光をくれるんです。それが教育の根幹なんです。自分はそれがやりたいんです」
やっと石田の内心が見えてきた。
「じゃあお前は、シキシマが嫌になったわけじゃなかったのか?」
「あなたにそう思われていることにもう耐え切れませんでした」
俺は一瞬考えてすぐに返した。
「気付いてたのか?」
「・・・はい・・・だってムラさん、明からさまなんすもん」
俺は眉を潜めて聞き返した。
「わざと自分が話しやすいように、タイミング作ってましたよね?」
(いや、そんなことねぇ)
そう思いつつも少しずつ描写を思い出してきた。
確かに思い当たる節はいくつかあった。
佐原達とこの訓練棟の屋上から星を見たとき、石田だけ一人違ったような顔をしていた。一緒に教官派遣に行ったときも教育に関して異常なまでの執着をみせた。
そして極めつけがこれまでに感じてきた出動帰りの違和感だった。
「じゃあ最近の出動帰りのあの表情は?」
俺は詰めるように聞いた。
「あれは・・・もうこれができなくなっちゃうのかと思って・・・」
「なんだそれ」
俺はそう言いながらも妙に納得してしまった。
なによりも驚いていたのは、本当は自分が一番気付いていたということだった。
以前にも、石田から教員という夢を持っていたという話は耳にしていた。
石田から発せられる言葉達をかき集めていくと、まるで自分が知っていたかのようにすんなりと自分の中に溶け込んだ。
俺は急に大人しくなった。
「この話、俺が初めてか?」
「えぇ、自分からするのは初めてです」
「ってことは、誰かから聞かれたのか?」
「はい」
「親とかか?」
「いいえ、ディーさんです」
「は?アイツから聞かれたのか?」
「お前、なんか隠してるっしょって聞かれました」
俺は浅利の直球に頭が下がった。
「それで話したのか?」
「いや、なんとなく濁したんですけど、まあなんでもいいけどあの人も勘付いてるからちゃんと話してやれよって言われました。あの感じだと、話さなくても見透かしてる感じでしたね」
「お前ら、なんかすげぇな」
思わず頭が付いて行かず、「すげぇ」という曖昧な感想になってしまった。
ただその頃には俺の上がりきった心拍数はもとに戻っていた。
「で、先生になるってどんなプランなんだ?」
石田のことだから、それが当てのない旅ではないことは察していた。
「大学に通います」
「仕事続けながらか?」
「それも考えましたが、そんな中途半端はあなたに怒られると思いました」
「お見通しだな」
「はい。だから、入学資金も貯めてます。親にも迷惑をかけないように、特待生制度のある大学を選びました」
「親御さんには話したのか」
今となっては、一番の気がかりはそこだった。
消防職員は言わずと知れた公務員である。体育会系の男の子にとってはもってこいの安定職だ。それを放り投げるとはバカと言われても仕方がない。それが俺達の影響でなどと言われたら、責任を感じざるを得ない。
「話したんすけどね・・・」
思った通りの反応だ。
「理解してくれなかったか・・・」
「勝手にしろって感じでしたね」
「そうか」
こんなとき、鈴木隊長だったらなんて言うのかと考えた。頭の中を三周くらい巡ってみたが、それでも模範解答らしき予想は得られなかった。
「でも、気に食わねぇんだろ?」
「え?」
「そのまま中途半端に生きていくの、気に食わねぇんだろ?」
俺は俺なりの言葉で返した。
「お前は、消防職員としても十分立派にやってる。毎日俺にぴーちくぱーちく言われながらも、そのたびに少しずつ成長してきた。今では若手職員のエースと言っても過言ではないほど、力をつけた。このままやっていけば、きっと俺や鈴木隊長もゆうに超えるだろう。それでも、気に食わねぇんだろ?」
石田はハッとした表情を浮かべたあと、何かをスッと飲み込むように目を閉じた。
「そうです。それっす」
目を閉じたまま頬を上げた。
「なんかしっくり来なかったんすよ。言いたいことが言えないというか、自分の考えがまとまっていないというか・・・だからあなたに言うのもためらってたんです」
「うん」
俺はできるだけ間合いを崩さないように相槌を打った。
「あなたもエジさんもディーさんも隊長も、みんなやりたいようにやってんのに、俺だけ中途半端で気に食わねぇんすよ」
今度は俺が目を閉じた。
「そうか、好きにしろ」
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