第4-1話 正常性バイアス
ー正常性バイアスー
この言葉は、ことこの業界においては、災害や防災を語られるときに使われる。
一種の先入観のことであり、心の平静を保つための精神的恒常機能である。
「自分が危機に見舞われるわけがない」「これはまだ異常事態ではない」
そうして置かれた現状を見誤る。消防風に言い換えれば「スイッチが入らない」ということになるだろう。
そしてそれは、普段から災害を目の当たりにしている我々にも発生する。さらに一般的な考え方とは違ったシチュエーションで起こる。
先日の出動などまさにその一つであった。
起こり得ないことが起こる。在職歴がそこそこの俺にとってもそうなのだから、浅利や石田にとってはとんでもない事態に感じているのではないだろうか。
あの日、署に戻るとすかさず内線電話が鳴り響いた。鈴木隊長が長電話をしている間、俺達は事務室には行かなかった。
隊長に気を遣ったというのもあるが、俺達自身、自分のアタマが謝っている姿など見たくない。
「隊長、キレてたっすね」
喫煙所で江尻が口火を切った。帰りの消防車の中では会話がなかったから、これが始まりになった。
「そうだなあ。にしてもあの人らしからぬ力ずくだったな」
「ホントですね。朝から機嫌悪かったとはいえ、あからさまですね」
江尻は平然と現状を述べた。
「人間らしくてイイっすね」
浅利がニヤつきながら言った。俺達の注目を集めると、さらに続けた。
「公私混同がうんたらとか講釈述べるヤツがいますけど、これだけ感情をむき出しにしてくれると気持ちいいっす」
俺達は一様に「まぁねぇ」というような顔を浮かべた。
「だって結果的にあの女の子にとっては、隊長が機嫌悪かったおかげで、より早く苦痛から開放されたんですよ。いや、むしろ命が助かったのかもしんないっす。なんか不思議っすよね」
浅利が話をスピリチュアルにしようとしたところで俺が現実に戻した。
「でもお約束のが待ってんぞ?」
数秒時間が止まってから声が揃った。
「ホントっすよねぇ」
「誰が機嫌悪かったって?」
車庫の入口の方から声がした。
(しまった・・・)
陰口というつもりもないが、できれば聞かれたくはなかった。
あえて大げさに頭を抱えようとしたとき、隊長の姿が見えた。
「今回の件はお咎めなしって話だ」
隊長は機嫌が良くなったことを隠すように言った。
「え?」
俺達は一様に驚いた。
「どういうことですか?」
俺が訝しげに聞くと、隊長もハテナ顔をした。
「さぁ・・・俺にもワケがわからん」
なにやらきな臭い気もしたが、あえて深く突っ込まないようにした。
「警察のメンツとかもあるんすかね」
「なんだろうな」
隊長の表情から察するに、本当に知らないようだった。
俺は心から安堵した。
正直言って、最近のシキシマが少々やりすぎているのは確かだった。自らが処分されることにはいまさら何のためらいもないが、後輩達に関しては話が別だ。ましてや、石田のように優秀な隊員からしてみれば、シキシマにさえいなければ出世街道を邁進できる。
そのことがずっと気がかりだった。
何度か気になって聞いたこともある。それでも本人が俺達にそんなことを言う訳がない。
本人に聞いても仕方ないのは分かっていたから、彼の同期や元同僚に探りを入れたこともあった。それでもみな一様にリスペクトを答える。
それが本心なのかそうではないのか気がかりだったのだが、一番の懸念は彼の表情だった。
今日この日も、あの現場から一言も発していない。
活動中は目を見張るほどの活躍をする。人がイキイキするというのはこういうことだろうと思わされるほどに。
それでも現場から帰ると、いつもものさみしげな表情を浮かべている。
いつからだろうか。だいぶ前からだ。
それもずっとなわけではない。現場から帰ったあとの数時間だけ。それも過酷な現場になればなるほど、その影は大きくなった。
数時間経てば、それは氷が溶けるように無くなっていく。いつもの石田に戻る。と思っていたのだが、最近はどちらが本当の石田なのか不安に思うこともあった。
それに拍車をかけたのが、周りの声だった。
以前、江尻がPTSDを告白したとき、石田は「シキシマが周りからなんて言われてるか知ってますか?」と俺に聞いてきたことがあった。
つまり、その周りからの声は石田にも届いている。それを気に留めないほど、彼は強くも廃れてもいない。
以前から気にかかっていたのはそのことだった。
そんな表情を隠せないほど俺も子供ではない。
石田の違和感のある表情を見ながらも、俺は静かに喜んでいる様相を呈した。
少なくとも、江尻や浅利には感じて欲しくなかった。
人が幸福感を感じるのは安心感だ。それを安定と言う人もいるだろうが、俺はあえて安心感だと思っている。
この職場に、少なくともここシキシマには安定などない。毎日不安を抱き、危険が隣合わせで、怪我したり心の病気になったり、ときには役職を奪われることすら目の当たりにした。
それでも、ここには安心感がある。想う仲間がいて、頼りにする上司がいる。それが職場というコミュニティにとって、どれだけ重要か。
毎日を平穏に暮らせる安定感よりも、不安定な毎日を一緒に乗り越えていく仲間がいることのほうがよっぽど若い彼らにとっては重要だと思っていた。
しかしそれは、自分が一番求めていることだった。
隊長と浅利が、なにやらギャンブルの話をしながら事務室へ向かって行った。
そのあとを江尻が追いかけるように付いていく。
俺はなぜかしんがりを取ろうと思った。いや、最近ずっとこうしている。
例えば五人が動くとき、活動中又は訓練中を除いては基本的に石田が一番後ろを行っていた。それは後輩だからという理由が大きかったが、石田が一番温和な性格だからだったかもしれない。
それを俺はあえて一番後ろを歩くようにしていた。ここ最近。それが自分でも気づかなかったがごく自然とやっていた。
なぜかというと、そのうち「ちょっといいですか?」と声を掛けられる気がしていた。そしてその予想はピタリと合致した。
「ムラさん、ちょっと話があるんですが
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