第3-24話 呼吸音
ちょうどいいタイミングで救急支援の出動指令がかかって訓練棟は解散になった。
石田がどんなに訴えてもどうにもならない事実が立ち塞がっている。
今回は救急支援出動だったが、出動指令がかかるたびに心臓が熱くなった。まるで最後を知らせる音かのように思えた。
確かに江尻本人が言うように、火災出動でなければ何ら問題はない。むしろ俺達の助教期間を経て、一段と責任感が増しているように思えた。それが俺達が居なかったからからなのかPTSDによるカバーリングなのかは分からない。
それでも江尻の動きを見れば見るほど思ってしまう。「もったいない」と。それが苦しくて何度も目を背けた。実際に江尻を視界に入れないように活動したことで、それは歪なものになった。
(気持ち悪りぃ)
たかだか隊員一人の動きがスピード感を増しただけでこんなにも違和感を感じる。
部隊活動において、いままでまったく違和感を持たなかった者達がわずかに生じたズレによって一歩を踏み出せなくなる。一言が出なくなる。それがこんなにも気持ち悪いものだとは思わなかった。
署に帰ると、俺は思わずトイレに駆け込み、便器を抱え込んで戻した。
手の震えが収まらない。心臓の鼓動が一つ一つ伝わってくる。
それからしばらくして、嘔気が収まったのは夕食の分を全部出し終えてからだった。
事務室に戻ると、全員が素知らぬ顔をしていた。絶対に俺の嗚咽音が聞こえていたはずなのに、全員が知らないフリをした。というか、誰も触れられなかった。
「資器材片付けてきます」
俺は居られなくなって事務室を出た。
敷島出張所に来てから、ほとんどのことが上手くいっていた。小さな問題は起きても、そんなもの俺には大した問題ではなかった。ここに居る者に問題が起きること以外は自分が何とかできると思い込んできた。
悔しさともどかしさで、頭がおかしくなりそうだった。
消防車の後部座席で横になった俺は、消防車の後部座席後方のステーに取り付けられた空気呼吸器の面体を睨みつけた。
正直言って、面体を着けないように活動することはできなくはない。つまり、隠そうと思えばできないことはない。次の異動まで俺達が庇い続ければ済む話だ。その先のことは予めないが、次の隊長に内々で申し送りでもすれば決して不可能なことではない。江尻自身もそれだけの実力は持っている。「面体が着けられない」ことを差し置いても、消防署で活躍していくだけの能力は身につけてきた。
それでも、どうしても譲れないものがある。それは俺にとっても、江尻にとっても、鈴木隊長や石田にとっても同じことで、「火の中で戦えない者が消防士でいいはずがない」防火衣を着続けてきた者として、それだけは譲れなかった。
俺は無意識に空気呼吸器のバルブを開放した。「ピー」という音とともに導管の中を空気が通る。面体を手にとって被り、ゴム紐を締めて顔面に密着させる。一息めを強く吸い込むと、弁が開放されて面体内に空気が充満する。
ゆっくりと息をすると、「シュゴー」という独特の音が鳴る。この音を聞くだけで、確かに今までの情景がフラッシュバックしてくる。見たくもない光景すら思い出せる。それでも俺には息が吸える。
面体を外すと、閉めたはずの消防車のドアが開いていた。
そこには江尻が立っていた。
俺は気付いていたかのように振る舞った。面体を丁寧に外し、ステーのフックに引っ掛けた。空気ボンベの残圧を抜くと、車庫内に警報器の音が響く。
「いろんな火事いったな」
もう何も構えずに話をした。
「そうですね」
江尻もいつもどおりの調子で返した。
「結構ギリギリの線渡ってきたな」
「そうですね」
俺は空気呼吸器を整え終え、後部座席に深く座った。
江尻が下を向いて深く深呼吸をした。いつも覚悟を決める時にする江尻の癖だ。厳しい訓練の前に毎回見せてきた。
「ムラさん、俺じゃなきゃ助けられなかった人っていますかね?」
俺は動じずに深く座ったまま答えを濁した。
「どうかな・・・」
「俺が消防士になって、一人でも俺のおかげで助けられた人がいるなら、もうそれで納得します」
今度は俺が腹に空気を入れた。
「いねぇだろ。そんなの」
「ですよね・・・よかったです。あなたがそれっぽいことを言うような人じゃなくて」
「別にあんなの誰にでもできる。訓練を受けた人間なら、誰にでもできるよ」
「あなたらしい・・・きっと隊長もそう言いますね」
「だろうな」
別に「納得させないため」ではない。決して「奮起させるため」でもない。それが俺にできる「いつもどおり」だった。俺や隊長がいつも思っていることだ。
むしろ諦めさせるための言葉だった。
「エジ、教官や救急への道もある。教官になら、俺が相談してやろうか?」
去ろうとした江尻の背中に投げかけた。江尻は振り返ると小さく会釈をして言った。
「考えてみます」
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