第3-22話 PTSD
「一週間ちょっと前、お前らが助教に行っている間に火災があった」
「えぇ」
「思えばそれまでは、大きな火災がなかったんだ。あの日から」
あの日とは、江尻が後頭部をヤケドした保育園での火災のことだ。
「幸いそのせいで死者が出たりしたわけではなかったんだが、屋内進入の命令に動けなくなった」
鈴木隊長はできるだけ言葉をぶつ切りにして、事実だけを簡潔に述べた。
「それは他の職員は知ってますか?」
「いや、俺しか気付いてない。咄嗟に言い訳して他の隊に依頼したから、多分誰も気付いてないと思う」
「そうですか・・・」
ある程度状況が予めた。
「本人は?」
「それから火災には出てないから分からないが、特段何も言ってこない」
「先週の金曜日に会いましたが、俺にも何も言いませんでした」
「そうか・・・」
あれからどれだけ時間が流れただろうか。
左横に置いた電子タバコの吸い殻は三本に及んだ。
「ムラ、分かってるだろうが・・・最悪のことも考えないといけないぞ?」
「分かってます」
当たりどころのない怒りを短い言葉に込めた。
「これだけは、どうしようもないこともあるからな?」
鈴木隊長は言葉を選ばずに言った。
「分かってますよ」
俺は隊長の気持ちに答えるように怒りをぶつけた。
PTSD。心的外傷後ストレス障害とは、死の危険に直面した後、その体験がフラッシュバックしてしまうことで、これだけ医学が発展した現代でも解明や治療方法が確立されておらず、単発的に発症する例もあれば、永続的に発症してしまうこともあり、その様態はさまざまである。
江尻の症状は不透明な部分が大きく、未来を予想することが難しかった。それはつまり、最悪の状況を想定しておかなければならないということだ。
そして前例の多くが、復活が厳しいのが現実で、初動対応を失敗すると永久に戦闘不能になる。
消防士の多くは凄惨な現場や危機一髪の状況を目の当たりにする。
もちろん精神的にも肉体的にも鍛錬が必要で、ある程度は経験や慣れによって発症を抑えることができるが、こればかりは避けては通れない道だ。
この仕事をしていれば、ときに怪我をしたり、命を落とすこともある。それでも、肉体的に強靭な消防士でも、精神的に追い込まれればいとも容易く戦闘不能になる。
俺達消防士にとって、「戦えるはずの者が戦えなくなる」という状況が、受傷事故よりもはるかに与えるダメージが大きい。いわゆる「諦めがつかない」というやつだ。
俺はその現実を強く受け止めた。同時に強大な不安が俺を包み込んだ。なぜなら、いままでに見たことがない。身近な者がPTSDになるのは初めての経験だった。
翌日、職場に出勤すると、そこにはいつもと変わらぬ江尻の姿があった。
もちろん渡部救急隊長以下他の職員もそのことを知らないから、普段と何ら変わらない。
「助教おつかれさまでした!」
江尻の言葉は痛いほど爽やかで、昨日聞いた話がまるで嘘のようだった。
「ヤツが自分から言ってくるまで、もしくは現場で目の当たりにするまでは、黙っててやってくれ」
そう鈴木隊長と約束した。
その対応が正しいのか正しくないのかは分からないが、俺と鈴木隊長にはそれ以外の選択肢がないように感じた。
「おはよう」
そう返した言葉が、彼にどう映っただろうか。それでも必死に取り繕った。
「俺が居ないあいだに、隊長に迷惑かけてねぇだろうな?」
「そんなことないですよ!ムラさん達が居ないあいだ、俺がしっかり守っておきましたから!」
その言葉には一片の曇りもなかった。もちろん、隣で聞いていた石田は何も知らない。
そして、仕事は思わぬほどスムーズに流れた。
始業点検、事務業務、炊事、雑務、どれをとってもまったくと言っていいほど問題がなく、むしろ以前より要領が良くなっている気がした。
それも「症状を隠すためなのか」と変に勘ぐってしまったが、どうやらそうではないらしい。久々に一緒に勤務できることを素直に楽しんでいるようだった。
「隊長、屋内検索訓練やりませんか?」
俺はあえてみんなが事務室に居るタイミングで提案した。
そこは隊長、さすが歴戦の勇士である。まったくもって挙動を振らさなかった。
「ええけど、他の業務は大丈夫か?」
あえてそれを江尻に聞いた。
「いいですね!いいですね!久々にやりましょう!」
この反応にも明らかに不安の表情は見られなかった。
(コイツ、自分の症状に気付いてないのか?)
ときにPTSDは自覚が遅れる場合がある。それは一種の記憶喪失で、パニックに陥ったタイミングの記憶を飛ばす。そして、その後まったく発症しないこともある。という、希望的観測も持つことができる。
「いいっすねぇ!やりましょう!俺に一番員やらせてください!」
石田も盛り上がった。
二人を見ているだけで楽しい気持ちにさせられた。一瞬だけ、おとといから抱える心の不安を溶かしてくれた。
そして、俺の希望的観測は一瞬にして打ち砕かれた。
「最後かもしれませんからね」
江尻の爽やか過ぎる表情が、俺の心臓をグサッと貫いた。
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