第2-19話 ノーブレーキ

 先日の水族館デートのあと、俺は密かに動いた。

 全員に「みんなには秘密だぞ」という念押しをして、緩やかに広めていった。とはいえ、全員に言っているのだから誰かに秘密にする気もない。

 ただ単に大騒ぎになることを避けるためだった。

 それもあまり時間稼ぎにはならなかったが、大々的に発表するよりかは幾分かマシだった。

 作戦どおり、会話の中で話題に上がったときにはそこそこの時間が経っていたこともあって、みんなの熱量も減っていた。

  鈴木隊長に報告するときだけは少しばかり構えた。

 それはどこかお義父さまに挨拶に行くかのような感じがしたが、それ以上に、隊長の奥さんに報告するほうが緊張した。

 なぜならサキちゃんのお母さんは早くに亡くなっていて、近所に住む隊長の奥さんを実の母のように慕っていたからだ。


 不器用にもみんなへの報告を済ませてから二週間が経つ頃、サキちゃんがアメリカに経つ。

 あの日からサキちゃんはアメリカへ発つ準備をしていたから、街を離れることもほとんどなかった。

 俺の休みには毎日のように会っている。

 遠距離恋愛が始まると寂しくなってしまうから、頻繁に会うべきではないとも考えたが、そんなことでブレーキは効かない。

 冷静な分析ができるくらいなら、上司が可愛がった女の子を好きになったりしない。

 緩やかに走り出した消防車がひとたびスピードを掴むと、それはまるで時間に駆られた緊急走行のようだった。俺達の踏みしめられた右足が左側に動くことはない。


 そんな情熱的で夢のような日々が過ぎ去るのはあっという間だ。

 自分でもわかっていたように、近づきすぎたせいで苦しみを抱えることになった。

 「こんなことなら距離を保っておけばよかった」という冷静な後悔をどこにぶつけるわけにもいかず、悶えた結果、俺はそれを仕事以外に向ける方向を持ちあわせていなかった。


 結局、水族館デートの日、俺が“したかった話”はできなかった。話の流れと雰囲気を汲み取った結果、その日に言う必要がなくなった。

 だから、あれから三回目のデートのときにようやく話せた。

「俺、もう一度、救助隊を目指すことにした」

それだけを伝えたが、消防の内情を知るはずもないサキちゃんは素直に“再挑戦”を讃えてくれた。

 前例がないことや、過酷な道になることをわざわざ今話す必要もないと思った。

 それでも、五回目のデートのとき、ふとサキちゃんから「いままでで試験を受け直した人はいないんでしょ」と言われて、「あれ?」と思ったが、他でもない鈴木隊長以外に話す人はいない。

 それでも、その話しっぷりから、心配や不安という感情は汲み取れなかった。

 サキちゃんから伝わってきたのは、闘志や不屈の感情だけだった。

 留学をするのも、救助隊に再挑戦するのも、一般的なタイミングからは少し遅れているという共通点が俺達を戦友のような気分にさせた。

 そんなことに前向きな気持ちでぶつかっていく、この純朴であり頑固な女の子のことが、俺は好きで好きでたまらなかった。


 そんな彼女も明日飛び立ってしまう。

 この日の勤務は全くとして廃人の様相を拭えなかった。基本的には公私を混同させることはない。

 大好きな祖父が他界したときも、給料日の次の日に財布をなくしたときも、平然と仕事をしてきた。もちろんいままでに恋愛もしてきたが、それでも付き合おうが別れようが仕事のスタイルが変わることはほとんどなかった。

 今日だけはそうもいかない。

 急に磁気嵐が吹いて、航空機のシステムサーバーがダウンして日本の航空機が全て飛べなくなったらいいのになどという都市伝説レベルの妄想をするくらい重症だった。

「あの人、もうダメですね・・・」

冷ややかに笑っている声が背中から聞こえても、それに反応する元気すらなかった。

 みんなもこれが永遠ではないことがわかっているから、そっと見守ってくれた。

 そういうヒソヒソ話が聞こえたが、こちらとしては本当に復活できるのかも定かではなかった。

 みんなは、鉄人と思っていた男が腑抜けになった姿を大いに楽しんだ。それは鈴木隊長にまでおよび、

「ムラ、こないだの報告書作っ・・・いや、やっぱいいや」

とわざとふっかけてきたりした。


 ガタガタと揺れる窓を見て、江尻が

「今日風強いっすね。明日、飛行機飛ぶかな?」

と言ったのに俺が反応して、

「あ?風が強ければ飛行機飛ばないか!」

 そんな様子を見て渡部隊長が「余計なこと言うな」と江尻をたしなめるような顔をした。

 「そっかそっかー」

と俺も道化を演じながら事務室を出た。

 別にみんなのイジリが嫌なわけではなかったが、それを誤魔化せるほどの元気は持っていなかった。

 行くとこもなくなって、仮眠室に行き、ベッドに横になってスマホを開いた。

 水族館のときに撮ったツーショットを見ながら大きく溜め息をつく。

 その瞬間だった。

 「ポー、ポー、ポー、、、火災指令、林野、入電中」

 俺は飛び起きて事務室に向かった。


 「ピー、ピー、ピー、ピー、ピー、、、火災指令、林野、現場、木浜市下里一七三六番地先、林野、第一出動、木浜指揮1、木浜水槽1、富里水槽1、柳水槽1、敷島水槽1、富里救急1」

 事務室に着くと全員が指令システムコンピューターの前で場所と内容を確認していた。

 そこに映し出された地図はまっさらな地図で、どこのことを示しているのかわからなかった。

  地図を広域に変更し場所を広げていくと、その場所は見えてきた。

  どうやら市街地から離れた山奥のようだった。「下里」という地名を聞いただけでなんとなく想像はついていた。

 急いで火災の装備を整え消防車に乗り込もうとしたとき、石田が「ちょっと待ってください」と言って署内に戻っていった。

 石田は消防車に飲料水が積載されていないことを思い出して、クーラーボックスを取りに戻った。

「コレ・・・本番だったらやばいっすね」

江尻の声が僅かに震えているような気がした。

「あぁ・・・この風じゃな」

 俺がそう返事したときには、もう廃人はいなくなっていた。


 町外れに向かう消防車はノーブレーキで高速道路を走り抜けた。

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