第2-18話 シーソーゲーム

 しばらくはこの可愛らしいオオグソクムシの手を引いて水族館を回った。

 水族館の終盤には例に倣って見ごたえのある展示が繰り広げられる。

 この水族館のイチオシコーナーである海月イリュージョンとタイトル付けられたコーナーに着いたときには、俺が手をつないでいるのは深海の海洋生物ではなく、一人の可憐な女の子に変わっていた。

 その神秘的な海月に少しでも近づくために離された右手は、次へ進むときには自然と元に戻ってきた。

 海月コーナーのすぐ隣にはペンギン達の水槽があって、新しいコーナーに行くたびに右手はまた離れていく。確信はないが、それでもあの右手は必ず帰ってくるような気がした。

 水槽の中で泳ぐペンギンを持っていたパンフレットで右に左に振り回すサキちゃんを、俺は後ろから眺めていた。


 愛らしいペンギンコーナーを過ぎたところにある階段を登ると、広大な海が広がっている。その手前にイルカショー用のスタジアムが控えめに併設されている。

 ショーの時刻表を見ると開演まではあと15分ある。

 俺達は座席を確保した。といっても、今日は平日だから確保しなければならないほど人がいるわけではない。それでも早めに座席に座って「なんか飲む?」と聞いた。

「コーヒー飲みたいな」

彼女の好みはわかっている。雰囲気からしてブラックでも嗜みそうだが、彼女は甘いものを好んだ。だからショースタジアムの脇に併設されているこじんまりとしたコーヒーショップでアイスコーヒーとアイスカフェラテを注文した。


 ショーが始まるとスタジアムの観客席にはそこそこ人が入った。

 俺達は夢中になって見ていた。

 何かを見たり感じたりするときは、まるで一人になったかと思えるくらいに会話がなくなる。俺はときどき横顔を見た。見てる俺に気づいているのかいないのか、サキちゃんがこちらを向くことはない。それだけショーに夢中になっていることが嬉しくもあり、少し寂しい気持ちにもなった。


 ショーが終わっても二人はしばらくそこにいた。

 周りの観客が観客席から居なくなって、舞台幕があるわけでもない水槽の向うではスタッフが片付けをしているのが見える。

 「あのね、話があるの」

彼女の奥に見える太陽が真南と地平線のちょうど真ん中にあるのがわかった。

「ああ、俺もなんだ」

「え?じゃあ・・・どっちから話す?」

「じゃあ・・・サキちゃんから」

「んー、わかった」

そう言うとサキちゃんは少し息を飲んだ。

「あのね、私・・・アメリカに行くことにした」

サキちゃんは真っ直ぐに舞台の奥に見える遠くの海を眺めながら言った。

「え・・・?」

それはあまりにも唐突で、衝撃だった。

 衝撃や驚愕な出来事に対して、きっと普通の人よりも耐性があると思っていた。それでも一つ分野が違えば、こんなにも素直に驚いてしまう。俺はあえて、あまり驚いた顔を見せないようにした。

「アメリカに留学して、写真のこと、もっともっとお勉強しようと思うの!」

「あぁ・・・」

俺は絵に書いたように肩を落とした。そのあと、「今日のデートはなんだったんだ」と凄まじい怒りが込み上げてきた。しかし、サキちゃんはそれを想定していたようであまり焦っていないように感じた。

 俺自身も、怒りが込み上げてきたところで、女の子相手に声を荒らげられるような人間ではない。

「じゃあ・・・じゃあ」

応援の言葉をかけるべきか、素直な気持ちを言うべきかを迷いながら、とりあえず出した声を遮るように、

「だからね、だから・・・・だから、私のこと、ちゃんと彼女にして」

「え?」

そう言うと少し考えてから、でもそんなに時間を置いちゃいけないと思って、

「うん」

俺は穏やかに返事をした。

「うん、じゃなくて!」

サキちゃんが笑いながら快活に促した。

 俺は丸くなった背中をピシッと伸ばして、

「あ、うん・・・遠距離なんて初めてだし、良い彼氏になれるかどうかはわからないけど、良い男になれるかどうかはわからないけど・・・サキちゃんのこと、熱心に好きでいるから、俺と付き合ってください」

「うん!」

「いや、うんじゃなくて・・・」

俺もかしこまった顔が崩れた。

「あ、はい、こちらこそ、熱心に好きでいます」

サキちゃんのそれはすごく穏やかで、驚愕と不安のシーソーは大きく揺れたが、たまらなく愛しい時間だった。

 俺の話は、あとですることにした。


 水族館を出てると、駐車場とは反対側にビーチが広がっている。

 俺達はその手前にある階段になっているブロックに座った。

 「イルカさん、すごかったね」

サキちゃんが海を見ながら呟いた。

「どうして、あんなに忠実なんだろう」

「餌をもらえるからかな?」

俺がつまらない返答をした。

「絶対それだけじゃないよね?」

サキちゃんが覗き込みながら聞いてきた。

「そうだね。なんでだろうね・・・」

「ソウくん達と鈴木隊長って、あんな感じ?」

いつもなら「おじちゃん」って呼ぶのに、「鈴木隊長」と言われせいで、脳内に映し出された男の姿は防火衣を身にまとっていた。

「あんなに忠実じゃないよ」

機械のように右に左に動かされることがカッコ悪く感じて、そう答えた。

「でもほとんどのリクエストには答えるんでしょ?」

「まぁそうだね」

「どんな命令でも聞くの?」

「聞くねぇ」

「死んでくれって言われても?」

「さすがにあの人でも死んでくれとは言わ・・・」

俺は言葉を途中で切って考えた。

「うん。もしそう言われても下命には答える。あの人がそう言うってことは、色んなことを考えて考えて考え抜いて導き出した答えなんだろうから、それには答える」

「そこにソウくん達の意見はないの?」

「あるよ。もちろん“ハイわかりました”って死ねるほど機械じみてないから、文句も言うだろうし、駄々もこねると思う。でもあのオヤジがそう判断するってことは、その現場にそれ以上の良策はないから、“了解”って言えると思う。そのくらいの覚悟はいつもしてるよ」

「彼女ができても?」

「うん」

俺は必要以上に爽やかに返事をした。

「・・・よし、わかった!」

サキちゃんは何かを少し諦めるように言った。でもそれは「きっとダメだろう」と思っていた僅かな期待を吹っ切るようだった。

「じゃあ、無茶するなとは言わないから、絶対に戻ってきて」

俺は息を深く吸って止めた。

 その息を吐き出しながら、

「約束はできないな」

と答えた。

 サキちゃんは一気にシリアスな雰囲気を壊すため、俺の視界に潜り込んできた。

「なんでそんな答えになるかなー。そこはさ、“おう!絶対に生きて帰ってくる”とか言ってカッコつければいいじゃーん!なんでかなー・・・」

サキちゃんはそのあともブツブツと続けた。

 俺は苦笑いをしながら、

「だって、できない約束したくないじゃん。あの隊長のことだから“付き合った”ってことに嫉妬して無茶言ってきたりしそうじゃん」

と笑いを誘った。

 サキちゃんはふざけながらも少しだけ苦い顔をしたが、それをすぐに殺した。そのあと急に静かになったので、海沿いを流れる潮風に言葉を乗せた。

「俺達は超人やスーパーマンじゃない。だから時々、命とかキャリアとか色んなもの懸けないと力を発揮できない時がある。そうしなくていいなら一番いいんだけど、それが必要なときには、迷わず動きたいんだ」

「じゃあ、懸けるものが増えるってことは・・・?」

「そう!パワーアップするってこと!」

サキちゃんは笑ってくれた。きっとこんなことでは不安な気持ちを払拭することはできないのもわかっている。しかし、それでもできない約束をしたくはなかったし、かといって、自分の信念を曲げるわけにもいかなかった。少なからず諦めてもらうことも必要だし、でもそれ以上に信じてもらうことが必要だった。


 帰りの車の中では、遠距離恋愛するにあたっての約束をいくつかした。

 どんなに疲れていても、「おはよう」と「おやすみ」の連絡はすること。どんなに些細なことでも身体の不調については報告すること。プライベートで異性と会うときは始まりと終わりに報告すること。

 ひととおりの業務的な話し合いが終わって、少し沈黙が続いた。というより、沈黙を作り上げた。

 俺は自分が“したかった話”をしようと思っていた。しかし、サキちゃんにまたしても先を越された。

 「ソウくんってさ、これまでたくさん苦しいものを見てきたんだろうね」

「どうして?」

「だって驚いて心が動じても、それをあまり表情に出さないから」

「あぁ、さっき“アメリカ行く”って聞いた時?いや、驚いたよ。でもあんまり驚いちゃいけないかなって。人が夢を追いかけるのに、それを引き止めちゃいけないなって。でも普通の人が見ないようなものを見てきたからね、隠すのがうまくなっちゃった」

「うん、なんかね、だから・・・ソウくんのいろんな表情が見たいんだ。」

「うん」

俺のやや低めのテンションを指摘されているような気がして、小さく返事をした。

「私があなたのこと幸せにする」

「え?」

「だから、私がソウくんのこと幸せにする」

「サキちゃんが俺のこと幸せにしてくれるの?」

「うん」

「俺、女の子にそんなこと言われたことないや」

照れながらも自分の嬉しさが溢れ出していた。

「いままでたくさん人を幸せにしてきたでしょ。スーパーヒーローにだって幸せになる権利はあるでしょ」

 これから遠距離恋愛を迎えようという女性の言葉には思えなかった。そこにみなぎった自信は、なんの根拠もないのだろう。ただ根拠がないからこそ与えられる安心感もあると思う。自分がいままで言ってきた「大丈夫」と酷似しているように感じた。

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