第2-17話 レスキューダイバーと人魚
しばらくサキちゃんには会えないでいた。
サキちゃんはフリーの写真家として日本中を飛び回っており、俺はこの仕事だからこの街を離れられない。
なかなか会える機会は減っていたが、それでもこまめに連絡を取っていたし、休みの日は電話もしていた。サキちゃんから送られてくる写真には時折彼女の姿が写っていたから、少なからず会っているのに近い感覚になっていた。
この日は約3ヶ月ぶりに会える。
行きたい所を聞いたら、いつもどおり遠慮なく答えてくれて、久しぶりのデートは水族館に決まった。
車に、昨日買った芳香剤を載せてサキちゃんを迎えに行く。
サキちゃんの家につくと、サキちゃんは家の前で待っていた。玄関の前に立っていたサキちゃんはデートに似つかわしくない大きなリュックを背負っていた。
サキちゃんが助手席のドアを開けて乗り込んで早々、
「あれ?水族館じゃなかったっけ?」
とボケてみる。
「いいの!何が入ってるかわかってるでしょ!」
とツッコむ彼女の横顔を見ると、3ヶ月という時間はなかったかのように感じた。
「じゃあ、水族館にレッツゴー!」
と彼女はハイテンションで笑った。
いつも、彼女のテンションと俺のテンションは比例する。あえてなのか自然にか意識したことはなかったが、俺のテンションはいつも彼女の少し下を漂った。
今日も「イエーイ」と言ったその言葉は、例に倣ってバランスを保った。
海に面しているとはいえ、この街に水族館はない。
1時間と少しいったところに水族館がある。駐車場に車を止め、降りようとドアを開けたときには磯の香りとジメっとした空気が二人を非日常の世界に迎え入れてくれる。
「サキちゃん、水族館いつぶり?」
「んーとね、元カレと来た以来だから、3年ぶりくらいかな!」
デート中に「元カレ」というワードを惜しげもなく使ってくるあたりが、サキちゃんらしいなと感じたが、それでも少し心を揺さぶられた。それを隠すつもりが、
「そうなんだ」
とぶっきらぼうになってしまったことで「しまった」と思ったが、
「ウチの街にも水族館できないかねー」
と彼女の全く気にしていない態度を見て、自分の心が揺さぶられたことが恥ずかしくなった。
水族館も映画と同じで、入り口から出口にかけてだんだんとストーリーが展開されていく。見ごたえのあるものが後半に置かれているのは、どのエンターテイメントでも同じだ。
この水族館は中盤に大きな水槽が待ち受けている。暗いエスカレーターを降りきったところで、大水槽が眼前に広がる。
「すごーい」
「すげー」
二人の言葉がピタリと重なってから、しばらくは言葉のない時間が流れた。
「ソウくんてさ、レスキューダイバーなんでしょ?」
「・・・・・ん?」
俺が戸惑いながら聞き返した。
「え?」
「いや、いま・・・なんて呼んだ?」
「いや・・・」
サキちゃんは顔を赤らめた。
「え?なんて呼んだ?もっかい呼んで!」
笑って催促する俺をサキちゃんは可愛らしく睨みつけた。
「もぅ!なんですんなりと流さないかなぁ!」
「いや、だって・・・」
と言ってニヤついてしまった俺を今度は叩いた。
「だって、俺のこと下の名前で呼ぶ人って、なかなかいないから!だから、嬉しくて」
サキちゃんはまた赤ら顔に戻った。
「だって、いつまでもムラくんて呼ぶのもさ・・・」
サキちゃんはぷいっと外を向いたが、俺は膨れるサキちゃんの顔を見ながら答えた。
「そうだよ。前はレスキューダイバーをしてた。今は消防隊だから、潜ることはないけど、一応ダイバーの資格は持ってるよ」
サキちゃんはまだ怒っている。それをわかっていたから、俺は一人で喋り続けた。つらかった潜水訓練の話、緊迫した潜水救助の話、それからプライベートで行ったダイビングの話をして、海の底の世界がどんなに素晴らしく神秘的なものかを力説した。内心、サキちゃんの機嫌をうかがっていたが、まるで相手の表情なんて気にしていないかのように夢中に話した。そのうちだんだんとサキちゃんが話に食いついてきて、いままでどれくらい深く潜ったことがあるか、どんな海洋生物を間近で見てきたかを聞いてきた。それに丁寧に答え終わった時、
「いいな。私も見てみたい・・・」
「うん」
俺は饒舌に話すのをやめた。
「ムラくんさ・・・いつか一緒に潜ろう。一緒に潜って、今までムラくんが見てきた世界を写真に撮りたい」
呼び方なんてどうでもよかった。
大きな水槽を見上げながら、無意識に言葉が口から溢れている様は、まるで人魚が泡をはき出す姿のように見えた。
その後はゆったりとした時間が流れて、あまり会話はなくなった。
高揚した気持ちを抑えようと呼吸をゆっくりにする。それは潜水中に酸素を無駄に消費しないようにする呼吸と同じだった。
深海コーナーを歩いていると、ますます呼吸がゆっくりになっていった。
「この子達って、目見えないんだよね?」
「うん。深海は光が届かないからね」
「そっか。じゃあ迷っちゃうね」
「だから、群れは離れないようにするし、感覚が敏感な生物が多いんだ」
俺の言葉に対する「ふーん」という返事が、真隣から聞こえるはずだったが、少し後ろの方から聞こえた。
その違和感から、俺は「あれ?」っと思って振り返ると、サキちゃんが目を閉じて立ちつくしている。右手のひらを大きく広げて、前に突き出していた。
サキちゃんが目を閉じていたから、俺は思いっきりニヤけながら戻った。
「行くぞ!オオグソクムシ!」
サキちゃんの手を少し引っ張るように握った。
「グソグソ・・・」
サキちゃんは目をつむったまま満面の笑みで引っ張られた。
深海生物の代表格がオオグソクムシになってしまったことを、俺は心から悔いた。一瞬でもこのファンタジーの世界にオオグソクムシが登場したことを悔しく思ったが、サキちゃんの満面の笑みと「グソグソ」のおかげで、この生物が世界一愛おしい深海生物になり変わった瞬間だった。
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