第2-12話 崩れる無線

 サラリーマンに憧れたこともある。

 ビシッと決めたスーツ、細めのネクタイをして、革靴には少しこだわりをもってイタリア製を選ぶ。気だるそうに満員電車に揺られて、都内のオフィスで横文字を連発するようなワークスタイル。その高層ビルにあるガラス張りのオフィスには女性スタッフも居て、同じくビシッと決めたロングヘアーのその女の人と話すときは、決まって顎を撫でながら話す。

 消防士にはかけ離れた生活。


 年に一度、決まってビシッとスーツを着る時がある。それでもその目的はロングヘアーの女性でも高層ビルにあるガラス張りのオフィスでもない。

 新幹線から特急に乗り継いで、最後に乗る各駅停車の電車にはほとんど乗客が居なくなる。5時間もかけて向かうその場所は、長い階段の先にある、見晴らしのいい丘。

 そこに着くと、ひと目もはばからず、というか人なんてほとんど来ない、ドカッとあぐらをかいて、来る途中で買った恵比寿ビールをプシュッと開けてそっと前に置く。

 ビシッと決めたスーツの胸ポケットからアメリカンスピリットを取り出して火をつけた。普段は電子タバコを吸っている俺も、今日は紙タバコを吸う。もう今ではソフトパッケージはなかなか売っていなくて、仕方なくハードパッケージを買った。

 火をつけたそのタバコが消えてしまわないように、何度か勢いよく吸ってそれも前に置く。もう一度アメリカンスピリットを取り出して、火を付ける。火が付きにくいこのタバコをふた口大きく吸って、ゆっくりと空に向かって吐き出した。

 「もうあれから5年になるな。」


 4年と364日前、その日も空には分厚い雲がかかったどんよりした一日だった。

 俺は特別救助隊員として1年生の日々を過ごしていて、今のようにどこか冷めた雰囲気もなく、気分が天気に左右されることもなかった。なんてことないその一日が一生忘れられない一日になるとは思ってもみなかった。

 1つ下の期に“荒木圭佑”という男が居た。1つ下の期といっても、歳が同じだったからほとんど同期のような感覚で後輩と思うことはなかった。彼も同じで、先輩の俺に対しても敬語を使うことはほとんどなかった。俺はそんな彼のことを“ケイ”と呼んでいた。俺や伊川のように救助隊を志望することはなかったが、この仕事に対する熱い気持ちが俺達に劣ることはなかった。そんな熱い気持ちを持っていて、なぜ救助隊を志望しなかったのか、理由は結局わからなかったが、どこの隊だろうと同じ気持ちを持っている仲間がいることを嬉しく感じていた。

 その反面、「カッコつけんなよ」それがケイの口癖で、会う度に言われていた気がする。自分が一番カッコつけているくせに、それを誤魔化しているかのようだった。


 4年と364日前、そのどんよりした日にかかった火災指令が分厚く分厚く俺の人生にのしかかった。


 「ポー、ポー、ポー、、、火災指令、一般建物、入電中」

救助隊に入隊したばかりの俺は、誰よりも早く車庫に走って準備をした。

「ピー、ピー、ピー、ピー、ピー、、、火災指令、一般建物、現場、木浜市久慈5丁目7番8号、一般住宅、第一出動、木浜指揮1、木浜救助1、木浜水槽1、木浜水槽2、柳水槽1、清水はしご1、敷島水槽1、木浜救急1」

 消防隊の防火衣とは少し仕様が違う救助隊の防火衣に悪戦苦闘しながらも、俺は一番に後部座席に乗り込んだ。

「おお、早えじゃねえか。」

副隊長である浜森さんに褒められても、それを褒め言葉として受け取ることはなかった。

「今日は伊川が休みなんだから、そんな張り切んなくてもいいんだぞ!」

そう茶化されても、そんなことに返している余裕はない。

 浜森副隊長の他には機関員の大泉さん、中堅として古畑さんがいるこの部隊の助手席に乗るのは森田隊長だった。

 新人の俺に下されていた命令はたった一つ。「副隊長から離れるな」。それが唯一の命令であって、森田隊長から俺に命令が下されることは無い。つまり俺は浜森副隊長の金魚のフン状態だった。それでもなんとか足を引っ張らないように必死だった。

 この部隊は必ず最後に森田隊長が乗り込む。隊長は乗り込むと、

「じゃあ、行くぞ。」

低い声で声をかける。それに対して全員が合わせて、

「ッシャ!」

なんと発するかわからない声をあげる。それがお決まりだった。

 「指令センターから、木浜市久慈、一般建物火災出動中の各隊へ一方送信、現場は指令同番地、一般住宅、平屋建て、入電は1本、252は不明、煙がくすぶっている模様、以上。」

車内無線から指令内容が流れる。

「くすぶってるってどうゆうことですかね。」

建物火災において、くすぶっているという情報はあまり聞き慣れなかった。

「確かに、“延焼中”とか“消火済み”とかならわかるけど、建物火災でくすぶってるってなんか変だな。」

 消防士において、“なんか変”という感覚はとても重要で、それを感じたからには警戒する必要がある。

 この火災が発生した久慈という場所は、敷島出張所の管轄で、その当時ケイが所属していたのはその敷島出張所だった。つまりケイが最先着する。

 「ぼやにしてはあまりにも情報が少ないですね。通報内容の薄さからしてその家の本人からの通報ではないんでしょう。ということは外部からの通報。なかで何が燃えているのか、どのくらいの時間燃えているのか、まったく予想できませんね。」

 機関員の大泉さんが運転しながら隊長に投げかけるように言った。俺が普段している考察もこういうところから来ている。

「外部からの通報ということは要救助者が居る可能性が高いな。内部進入を念頭に活動に入るが、みんな気をつけろ。不用意に進入するなよ。火災は静かなときこそ危ない。」

隊長が言った“火災は静かなときこそ危ない”はそのとおりだった。燃え盛っているときは誰だって警戒するし、何が危険なのかを見つけることも簡単だ。しかし、静かな様子では何が危なくて、何が起っているのかを判断することができない。全ての可能性を考慮して活動しなければならない。

 「ムラ、俺の後ろから絶対に離れるなよ。」

浜森副隊長に言われて一層気を引き締めた。

 救助隊の消防車が、出動した本署から災害点までのちょうど中間くらいに差し掛かったとき、当時の敷島小隊長から無線が入った。

 「要救助者情報アリ、平屋建物内部に要救助者1名ある模様、付近住民から聴取、なお当該建物から炎上は見られず、継ぎ目から煙が漏れている状態。」

車内で空気呼吸器を着装している途中だった俺の手が止まった。助手席でシートに寄りかかっていた森田隊長も前かがみになって膝に肘をついた状態で、無線機の送話器を手に取った。

「木浜救助1から敷島小隊長、当該建物の煙の色は?どうぞ。」

「敷島小隊長から木浜救助隊長、煙の色は黄色がかった白ですが、極少量です。どうぞ。」

車内にいた全員が「黄色がかった」という言葉に反応し、隊長が注意を促そうと無線を返した。

「木浜救助1から敷島小隊長、煙の色から判断して、バックドラフト等の爆発が起きる可能性がある。進入は当隊の到着まで・・・」

森田隊長が言い終わる前だった。

「要救助者、建物外部から視認!緊急救助に切り替え、救出にかかります。」

森田隊長の無線を遮ったその声の主はケイだった。俺がケイの声を聞いたのは、それが最後だった。

「待て!進入するな!」

森田隊長が無線規則もとばして発した。

「木浜救助1から敷島小隊長、進入は危険だ!俺達が着くまで待ってろ!」

今度は少し丁寧になったが、それでも言葉は崩れていた。

 大泉さんがアクセルを強く踏んだのがわかった。窓際に座っている古畑さんも窓を開けて災害点の方を見ている。

「木浜救助1から指揮隊長、進入禁止命令を下命ください!」

その無線を受け取って、指揮隊長から進入禁止命令が発せられた。しかし、森田隊長からの無線に応答しない時点で、そんなものを守る気もなかったのだろう。

 俺はたまらなくなって、

「・・・大泉さん!早く!」

そう言うと、ヘルメットの上から頭をどつかれた。

「お前が焦ってどうする!冷静になれ!着いたらすぐに進入だぞ。落ち着いて準備しとけ。」

浜森副隊長は異様に冷静だった。そう言われた俺は、緊張した肩の力をスッと抜いて下顎に溜まった唾を飲んだ。その時だった。

「メーデー、メーデー、バックドラフト発生・・・」

そのあとに続いた無線は、ほとんど記憶にない。うっすらと災害点の方角に上がっていた白煙が、黒煙に変わっていた。それをずっと眺めていた。

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