第2-10話 良いか悪いか

 陽光軒に着くと、店の前で客らしき中年の男性が消防車に向かって手を振っていた。

俺達が必要な資器材を持って店内に入っていくと、厨房で倒れているオヤジの隣に奥さんが寄り添っていた。

「おばちゃん、変わって!」

江尻が倒れているオヤジの右側についた。

「意識呼吸だけ確認しろ!」

そう言うと江尻が「オヤジさん」と声をかけながら観察したものの、それは目に見えて明らかだった。

「死戦期呼吸です。」

「まず、厨房は狭いから広い方に移動するぞ!」

俺がそう指示を出すと江尻が頭部側、石田が足部側についてオヤジを抱え上げた。

「エジ、もう一度脈拍と呼吸を確認してくれ!イシはAEDつけて!」

俺がそう言ったとき、江尻はすでに指をオヤジの手首に触れて脈拍を確認していた。石田はAEDを展開させてパッドを準備している。

「おばちゃん、オヤジさんの服切るよ!」

俺はその返事を待たずして服にハサミをかけた。

 ハサミで服を切りながら、

「隊長、意識なし呼吸は死線期です!心肺停止と判断して心肺蘇生します!」

「わかった!活動は任せる!俺は情報聴取と無線で救急隊に報告してくる!」

 救急隊は本署から来るため、到着が遅れる。そのことは出動したときから全員の頭の中にあった。普段なら、同じ場所から敷島の救急隊が出動する。その直前に他事案で出動がかかってしまったがために、次の直近部隊が選定された。

 そしてこの「遠くから来る」という障害が俺達の脳裏にずっと居続け、活動判断をする度にそのフィルターを通す。

 「心電図を解析します。身体から離れてください。」

とAEDの自動音声が俺達を無駄に煽る。

俺達は祈ることもなく淡々と必要以上に落ち着いた演技を重ねて見守った。

「ショックが必要です。充電します。身体から離れてください。」

「心室細動だ!可能性あるぞ!イシ、ショックボタン!」

石田はショックボタンに指を置いて準備し、光るのを待った。

「ショックボタ・・・」

と自動音声が言い切る前に、オレンジ色に光ったボタンを押下した。

「エジ、気確してくれ!イシ、胸圧!」

少しでも伝達を短くしようと気道確保と胸骨圧迫を短縮して伝えた。

「オヤジさん、孫が産まれるんだろ?頑張れ!」

と江尻の素直な応援が寂しく響く。


 俺は一瞬にして頭の中に色々なことをめぐらした。それは目の前のオヤジの症状、思い出のワンシーン、自分のキャリアにまで及んだ。

 切迫した活動の中にいると呼吸することを忘れてしまうような感覚になる。浅くなった呼吸を一旦ただし、スッと息を吸ってゆっくり吐く。

 江尻の後ろに無造作に置かれた青いバッグに手を伸ばした。それには本来俺達が使うことは無いとされている酸素投与セットとバックバルブマスクが入っている。

 なにも言わずにそのバッグを開け、静かに酸素ボンベのバルブを開放した。

 いつもなら、なにか行動を起こすときには必ず呼称しなさいとうるさく指導してきた。それにも関わらず、今日は俺自身が黙った。少し見開いた目は、焦点がズレていた気がした。

「ムラさん・・・。」

普段なら、江尻の言葉はトーンからして何が言いたいか伝わるくらいわかりやすい。それでも今回は、それが伝わってこなかった。

 バックバルブマスクに酸素が流れ込み、人工呼吸をする準備ができた。

「鈴木隊長。」

そう言ったが声が小さくて届かなかった。

「隊長!」

もう一度呼ぶ。今度は届いたようで、無線機に手をかけた鈴木隊長が駆け寄った。

「どうした?」

きっとそう聞いたときには、あらかた想像はできているはずだった。

「AEDのショックが適用で1回実施しました。それから死戦期呼吸のため、強制換気が有効と判断します。許可願えますか?」

それは許可依頼ではなかった。許可出せるはずもない話だった。規則違反の許可など出せるはずもない。

「ムラ・・・」

俺はぼんやりとした視点で、膨らむことのないオヤジのお腹を見つめていた。

「ムラ!こっち見ろ!」

ハッとして鈴木隊長の方を見た。

「活動はお前に任せるって言ったろ?お前が必要と判断したんならやれ!目の前の人を助けるのに、良いか悪いかなんかで考えるな!」

自分の合わない焦点が中心に集まってぼやけた景色が鮮明に見えるようだった。

「よし、エジ、強制換気する!変われ!」

「ムラさん、俺がやりますよ。」

江尻のその言葉は、明らかにわかりやすいトーンで、庇うように言った。

「ダメだ。どけ。」

江尻は諦めるように場所を譲った。

 こういうとき、俺が言うことを聞かないことを江尻も知っている。

 俺はバックバルブマスクをオヤジの口元に当て、気道確保を正して、酸素を2回送り込む。使ってはいけない資器材といっても訓練は受けていた。

 オヤジの胸と腹を目視すると、きちんと酸素が送り届けられていることがわかった。

「エジ、次のサイクルでイシと変われ!」

 胸骨圧迫の交代を指示した。

「あと3分で着くそうだ!」

鈴木隊長から救急隊が到着するまでの時間を伝えられる。

 そのとき、

「オヤジさん?オヤジさん!」

と石田が問いかけた。

「体動あります!左手!」

江尻が胸骨圧迫をやめ、右手首で脈拍を確認した。

俺もオヤジの口元に顔を近づけながら、首に指を当て呼吸と脈拍を確認する。

「橈骨触れます!」

江尻の言葉に続いて、俺もおばちゃんに聞こえるように

「総頸動脈触れます!戻った!」

オヤジの身体に動きが見られたことと、自発的に呼吸していることを確認してそう言った。

「バイタル測ってくれ。俺は酸素投与を継続する。」

安堵から落ち着いた声になっていた。


 救急隊が到着すると、情報を事細かに引き継いだ。

 俺は木浜救急隊の救急隊長に電気ショックの実施時刻、心肺蘇生の開始から体動が見られたことによる中止までの様子を詳細に報告した。江尻や石田は救急隊員と協力して救急車までの収容を補助した。

 救急車は風のように去っていった。

 しかしその去り際、鈴木隊長と救急隊長が何やら深刻な表情で話しているのが見えた。その内容は聞かなくてもわかった。

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