第2-9話 ベタ踏み
先日の富樫の訪問は俺達にとっても新鮮味を感じるものとなった。
当初の目的である、石田の成長だけでなく、俺自身にも大いに影響した。一度特別救助隊を経験してしまっている俺にとって、再挑戦はよっぽど難しく感じた。それでも若い職員の闘争心を間近で見ることで、それは俺の心にも飛び火してきた。
敷島出張所消防隊には救急資格者がいない。消防署にはいくつもの内部資格というものがあって、俺や鈴木隊長が持っている救助隊の資格や消防車を運転するための機関員の資格など様々な資格が存在する。それはバランス良く考慮されて隊編成がなされるはずだが、それを全てまんべんなく割り振ることはできず、敷島小隊のように救急資格者がいない部隊が編成されることも往々にしてある。
救急資格とはつまり医療従事者のことであり、それがなければ、酸素投与やバックバルブマスクを使用した換気などの医療行為を施すことができない。つまり俺達は資格的には医療従事者ではなく一般市民と相違ないことになる。
そして、ときにそれが消防隊の足を引っ張る時がある。
「今日は鈴木隊長のおごりで陽光軒を注文します!」
ここ敷島出張所には、ボーナス時期になると、こうして上席者がご馳走してくれるという古き良き文化が残っている。とはいえそれは場所に根付くわけではなく、鈴木隊長がそういう精神の持ち主なだけに過ぎない。
「ごちそうさまでーす!」
そう言いながらみんなは事務室の机の上に置かれたメニュー表を眺める。
「中華料理屋なのにここのカレーは上手い」だの「揚げ焼きそばがふやけ過ぎている」だのそれぞれが意見を言いながら注文を決めていく。ふやけた揚げ焼きそばが好みの俺は、武林の意見を参考に「揚げ焼きそば大盛り」を注文した。
夕方のトレーニングをしていると、見慣れた白い軽自動車が消防署の敷地内に入ってきた。運転手は車を降りると後部のハッチバックを開けておかもちを取り出す。それを石田に手渡しながら、
「お前ら相変わらず筋トレばっかやってやがって、暇そうだな!」
そんな難癖を付けてくる。
「いいんすよ!俺達が暇だってことは街が平和だってことなの!」
このオヤジにはみんな親しげに話す。
陽光軒という中華料理屋は歴代の敷島出張所員が出前を注文してきた馴染みの店であり、このオヤジは多くの職員が世話になってきた名物オヤジである。みんな名前こそ知らないが、かつて自衛隊で働いていたことや、バツが2つついていることなど多くのことを知っていた。署員に対してこれほどまでに親しげに話す市民も珍しい。俺達にとってはかけがえのない存在だ。
不思議なもので、中華料理屋のオヤジというものは、ときに心理カウンセラーのような一面を持っている。普段は冗談や難癖しか言わないくせに、こっちが落ち込んでいたり元気がなかったりすると、サービスしてくれたり「今日はいい」といって料金を受け取らなかったりする。そんなオヤジに親近感を持つのは至極当然のことだった。
オヤジはおかもちを石田に渡すと、
「おめーら最近来ねーじゃねーか。あ、そういえば病気してたんだってな!大丈夫かえ?」
俺の方を見てそう言った。
「ええまあ。もう良くなりましたよ!」
「おめーらなんて身体使うことしか脳がねえんだから、大事にしろや!」
「オヤジさんこそ、酒ばっか飲んでないで、少しは運動したほうが良いっすよ!」
「うるせえ!そういえばな、酒、やめたんだよ!」
「おお!病気にでもなったんスカ?」
江尻が冗談げに聞き返した。
「来月、孫が産まれんだよ!娘が“酒やめないと孫に会わせない”って言うから、やめることにしたんだ!」
ドッと笑いが起きた。
「名物頑固オヤジも孫には敵わないっすか!」
江尻の言葉を背中に受けながら、
「うるせえわ!まあまた来いよ!快気祝いになんか出してやるからよ!」
そう言いながらオヤジは車に乗り込んだ。
陽光軒の料理はどれもみな油ぎっている。それは男子にとっては嬉しいことなのだが、そんな男子にも強烈に感じる時がある。俺達はいつも食後にぐったりしてしまう。食べたあとは「しばらくいらない」と思うのだが、それでもやみつきになって数日もすれば食べたくなってしまうのがここの料理だ。
いつもどおりぐったりしつつ、喫煙所で休憩時間を堪能していると、指令音がなった。
「プー、プー、プー、、、救急指令、入電中。」
腹をさすりながら出動準備を整える救急隊に、
「いってらっしゃーい。」
少しの嫌味を込めて言った。
事務室に戻ると、
「いやー、火災じゃなくてよかったですね。いまあったらちょっと苦しいです。」
「そうだな。まあ俺は機関員だからまだお前らよりはいいけど。」
そんな冗談を交わしていた。
その数分後のことである。
「プー、プー、プー、、、救急指令、入電中。」
救急隊が不在にも関わらず救急指令音が鳴った。つまりPA連携出動である。
さっきの会話も忘れて急いで指令システムコンピューターの前に集まった。
「ピー、ピー、ピー、ピー、ピー、、、その他災害指令、救急支援、現場、木浜市小野1丁目32番3号、飲食店、特命出動、敷島水槽1、木浜救急1。」
指令システムコンピューターの前にいた全員の動きが止まった。指令システムコンピュータが示した災害点は俺達が夕飯を注文した中華料理屋陽光軒を示していた。
隊長が慌てて石田からパソコンのマウスを奪い取って内容を確認する。そこには「56歳男性、意識なし、呼吸弱い、店主」と端的に情報が並べられていた。
「指令センターから木浜市小野1丁目32番3号、飲食店に出動中の各隊へ一方送信、現場は指令同番地、56歳の男性、意識なし、呼吸減弱、救急隊遠方出動による遅延及びCPA疑いのためPA連携出動、以上」
「敷島水槽1、了解。」
「木浜救急1、了解。」
別に知り合いだからというわけじゃない。俺が踏んだアクセルは、現場に着くまでほとんどの間、床から一番近い位置にあった。
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