第2-8話 前かがみのレスキュアー
「富樫、居るぞ!」
石田や江尻ならこのときスムーズにメーデーをかけただろうが、富樫にはまだなんのことかわからなかった。
俺は急いでベッドの下を覗いたが明るいはずの室内でもベッドの下は暗かった。防火ヘルメットに付けてあるヘッドライトを点けて下を覗いた。
そこには真っ黒い塊が小さくうずくまっているのが見えた。その瞬間、俺は冷静に戻って顔を富樫の方に向けた。
「富樫、救出しろ!」
俺は笑顔で言ったが、マスクを被っているから俺の表情は富樫には伝わらない。富樫はまだ驚いていた。
「下に居る要救助者を救出しろ!」
今度は少し大きな声で促すように言った。富樫はハッとして、
「あ、ハイ!」
そう言うとベッドの下を覗いた。富樫は潜るようにベッドの下に手を伸ばしたが、空気ボンベが引っかかってうまく潜り込めないでいた。
「一旦ボンベ降ろせ!落ち着け!」
富樫は指示のとおりにマスクをつけたまま空気呼吸器を降ろし、身軽になってもう一度下に手を伸ばした。上半身をベッドの下に入れ込んだとき、
「確保!」
と大きな声で叫んだ。
富樫は入ったはいいがベッドの下で身動きできなくなっていた。
俺はもぞもぞと動く富樫の足を掴んでベッドの下から引きずり出した。それは、おとなしく首元を掴まれた黒猫だった。
「よくやった。じゃあまずその猫を救出しようか!」
俺がそう言ったとき、ちょうど後ろから石田の姿が見えた。
「ちょうどよかった!イシ、この猫を外に出してやってくれ!俺達は消すから!」
そう言うと、富樫は黒猫を石田に託した。石田は黒猫を受け取ると、言葉も少なく踵を返して戻っていった。その姿は現場に慣れた消防隊員そのものだった。かつての動揺や焦りは見えなかった。
「水を打つと、一気に熱が拡散して熱くなるから、噴霧注水で排気しつつ徐々にストレート注水にして水を打つんだぞ!」
「ハイ!」
「もしあまりに熱いと感じたら、ウォータードームを作って防御姿勢をとる!」
「わかりました!」
「じゃあ放水開始!」
ホースから水が出た瞬間、一瞬だけものすごい熱気に襲われたが、それも水の冷却効果によってすぐに収まった。それでもこの一瞬の熱気で大やけどをおおうこともある。
俺は富樫の状態を確認しながら、あっちこっち消火ポイントの指示を出した。
火はあまりにもあっけなく消火された。外からの放水では燃焼実体に当たりづらく消火効力は弱いが、内側からピンポイントで水を打ってやれば火はすぐに消える。
残火処理に時間はかかるものの、こちらの建物についてはほぼ鎮火と言ってよかった。
俺達は一旦建物の外に出ることにした。体感ではそんなに時間が経っていないように感じたが、すでに活動時間15分のリミットに迫っていた。
外に出ると、そこには先程の黒猫を抱いた女性の姿があった。
「あの・・・あちらの隊長さんから、ウチの子を助けていただいたって・・・。」
「ええ、でも実際に助けたのは彼ですよ!」
そう言って富樫の方を指差した。
「そうでしたか、ありがとうございます!」
そう言うとその女性は富樫の方に向かっていた。
富樫は少し照れたように、でもしっかりとした表情で受け答えをしていた。その会話の内容は聞かなくてもわかる。
いいところで富樫の照れを察して、呼びつけた。
「おつかれ!初レスキューだな!」
「ハイ!ありがとうございました!」
残火処理についても長い時間がかかるわけではなかった。
出火建物の残火処理は少し煩わしそうな気がしたが、敷島小隊と清水はしご隊は延焼建物の鎮火とともに引き揚げ下命がかかった。
残火処理中の各部隊と指揮隊、それから清水はしご隊の霧島隊長に挨拶をして引き揚げの準備をしていると、霧島隊長が富樫と話しているのが見えた。小さな声だったから内容は聞こえなかったが、俺の方を見て話をしていることはわかった。富樫との話が終わるとこちらに寄ってきて、今度は富樫にも周りのみんなにも聞こえるように、
「新人に余計なこと教えるんじゃねえぞ!」
大きな声でそう言いながら小突いてきた。そう言ったあとにその10分の1くらいの声で、
「助かった。」
そう残して帰っていった。
富樫との話は、聞かなくてもなにを言っているか予想できた。
帰りの消防車で、富樫は明らかに高揚していた。誰も聞いてもいないのに、建物の内部でなにが起きていたのかを事細かに説明した。俺は隊長への報告が省けて助かったし、みんなもそれを止めることはしなかった。かといって、会話をするわけでもなく、ただただラジオを聴くように聞き流していた。その若者の歓喜は、聞いてるだけで耳障りが良かった。
帰署するとすかざず撤収作業と次の出動準備に取り掛かる。もう富樫を甘やかしはしない。石田はガツガツと指示を出して富樫を動かした。
ひと通り作業が終わると鈴木隊長が気を遣ってジュース代を出してくれた。それも、
「ムラ、今日の火災の反省会、やっといて。」
その言葉を添えて。こういう見えにくい部分に、この男の男気が垣間見える。
「若者が夢を語るのに、おっさんがいたら話しづらいだろ。」
言わなくてもその言葉が続きそうな気がした。そう言って気を遣うのもカッコいいのに、言葉にすらしないときたから、だんだんそういう立場に近づいてきた俺からすれば、憧れるほかない。
「何か自分自身で反省する部分は?」
俺達は防火衣の上衣だけを脱いで下衣は履いたまま、缶コーヒーを片手に車庫であぐらをかいた。
一人ずつ良かった所と悪かった所を何個ずつか挙げていく。俺からすれば面白いネタはなかったが、みんながどういう視点を持っているのかは気になった。
「あの・・・質問があります!」
話が一旦落ち着いたところで富樫が手を挙げた。
「なんだ?」
「今日の建物は内部の様子が見えなくてわかりませんでした。村下さんは何を根拠に内部進入可能と判断したんですか?」
俺は考えた。あのとき何を根拠にしたのかを。
「いや、すまん。なんでかって聞かれてもわかんないな。」
そう言ったあと、改めて富樫の目を見た。
「中に入っていけるかどうかは、状況や環境で判断するんじゃない。お前が行きたいかどうかだ。その上で、行ける理由を探す。“行けるから行く”と“行きたいから行く”似てるようだけど、これは大きな違いだよ。」
富樫だけでなく、石田や江尻も真剣な顔つきに変わっていた。組まれたあぐらは、いつのまにか体操座りに変わっていた。
「現場では、常に前かがみでいないと出遅れる。状況は一瞬で変わるから、少し出遅れただけで手遅れになる。その前かがみの状態でたくさん経験を積んでいかなければ、いくらやっても現場での感覚は身につかない。一人前のレスキュアーになるには、多くの経験を積んだり、いろんなことを学ぶことが必要で、その機会が多く与えられてるのが特別救助隊なんだ。」
富樫は「なるほど」という顔をした。石田や江尻も納得していた。
「なあ富樫、お前はなんで救助隊に入りたい?」
富樫は口を開けながら俺の目を強く見つめ、少し考えてからかすかに笑顔をのぞかせて、
「最強のレスキュアーになりたいからです。」
言い切った。
「そうだな。」
話はそれで落ちた。俺は彼が「多くの経験を積むため」とか「多くを学ぶため」とかではなく、「最強の」という言葉を選択したことが嬉しかった。そんな堅苦しい言葉ではなく、誰にでもわかりやすい言葉というのが大切だった。
「戦う男はカッコいい。つまり総じて、“カッコいいから”でいいんだよ。」
「ハイ!」
と強く答えたその返事は、決して大きな声ではなかったが、車庫のシャッターを揺らすかのようだった。
「にしても最強ってのは・・・無理かもな。」
江尻がそう言って富樫の肩を叩きながら立ち上がると、署の中に入っていった。富樫は「何故」というような顔を浮かべながら、目で江尻を追いかけた。その後ろから、
「最強ってのは無理だろ。」
今度は石田がそう言って立ち上がったから、富樫も察しがついた。もう目で追うことはせずに笑顔で下を向いた。
「最強?なめるなよ。」
そう言って俺が肩を叩いたのには驚いたらしく、
「え?どういう意味ですか?」
と追いかけて来た。
俺はそれ以上は語らなかった。
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